馬場辰猪さんの激烈な人生〔1897〕2008/06/25
2008年6月25日(水)降ったり曇ったり
昨日、純信お馬の大スキャンダルが日本中によさこい節に乗って広がった1855年に、当時土佐に居った有名人は何歳くらいやったか、というお話をしました。で、明治期に自由民権運動の論客として大活躍をした馬場辰猪ちゃんは5歳でした。5歳の辰猪ちゃん、こぢゃんと勉強嫌いの腕白小僧やったということで、この写真の場所にあった家を本拠にホタコエまわりよったということです。ここは金子橋。枡形から南へ、通町から郭中へ入ってしゅっとのクにある、馬場辰猪先生誕生地の碑。向かいには名刹称名寺さんがございます。
5年前、2003年10月18日に、このにっこりで、この場所と馬場辰猪さんについてご紹介しちょりますきに、彼の大活躍についてはそちらをご覧になってください。
で、当時の馬場家は、馬廻役200石取りの、いわゆる上士で、龍馬さん達よりは家格が上でした。龍馬さんちは、ここからちょびっと西へ行った北にございまして、かなり近いです。20歳の龍馬さんと5歳の辰猪ちゃん。接点はあったがでしょうか。
この場所で、腕白に育った辰猪くんですが、9年後の1864年、14歳の時に、父親が何かをしでかして、小姓組に格下げになりました。翌年、大阪の土佐藩陣屋で兄が騒動をおこして何と24石に減俸、辰猪くんが若くして家督を継いだのであります。なかなか、カンキのありそうなご家族ですな。辰猪くんも、その血筋を立派に継承し、こぢゃんと優秀な頭脳もあいまって、明治の自由民権運動の歴史のなかをガイに駆け抜けたのでありました。父親の起こした騒動、兄の起こした騒動は何やったがでしょうか。辰猪さんも、明治の藩閥政治に真っ向から噛みつき、新しい時代への推進役として明治政府にとっての騒動を起こし続けていきました。