西孕、東孕、男子の本懐〔1805〕2008/03/25
2008年3月25日(火)桜咲いた!
高知も昨日で桜開花宣言。東京とかにはだいぶ負けましたですけんど、標準木以外の桜はもうかなり咲き始めちょりました。この強烈な春の日差しは高知ならではでしょう。
ここは浦戸湾。孕(はらみ)から東に突き出た半島の先っぽから東方面を撮影してみました。いや、孕というがは正確ぢゃあないですな。正確には西孕。で、この浦戸湾を挟んだ反対側、写真右手の山の山裾あたりが東孕。今、高知で孕と言うと西孕のことを一般には言う訳ですが、昔は西孕と東孕をキチンと呼び分けよったとういことです。
写真左手の山はご存じ五台山。右手の山が大畑山で、その間に下田川が流れ込みよります。トット向こうに言えるモコモコモコっとした山が介良の山。大畑山の北の麓が東孕で、明治の初期から、そこには小学校がつくられちょりました。東孕小学校。東孕の東に唐谷という地区があり、そこから水口雄幸くんという少年が東孕小学校へ通うて来よったそうです。明治20年頃。ほとんど喋らない無口な少年は、身体がガッシリしちょって、相撲は強かったそうです。勉強はすこぶるこぢゃんとできたそうですね。少年は高知尋常中学校へ進学し、第三高等学校から東京帝国大学法科へとすすみ、ほとんど無駄口はたたかない、笑わない、という正確のまんま大蔵省に入省しました。東京帝国大学へ行きゆう時分、高知県東部の田野村の濱口家の娘さんと婿養子ということで結婚、濱口雄幸さんという名前になりました。
城山三郎さんのノンフィクション「男子の本懐」で有名になったライオン宰相濱口雄幸さんは、少年時代をこの対岸の界隈で過ごしたのであります。井上準之介さんとのコンビで、第一次大戦後の不況に喘ぐ日本社会を立て直すため、緊縮財政を行い金解禁を行ったその実行力は、戦後になって高く高く評価されちょります。あの当時は、マスコミ論調も評論家も、目先の不景気に目を奪われて本当に日本の経済にとって何が大切なのか、見失うちょりました。濱口首相の意思の強さ、先見の明は、政治家とは何かを考えさせてくれるものすごいお手本やないでしょうかね。首相になる際、家族に対して、自分は自分がやろうとしている事のために命を落とすかも知れないが、それは覚悟の上だ、というようなことを言うております。政治家ですね。