光陰矢のごとし、上岡八幡宮〔1660〕2007/11/01
2007年11月1日(木)曇っちょります
今日から11月。もう、今年もあと残すところ2ヶ月になってしもうたですな。光陰矢のごとし、ですね。ここで「光陰」と書いて、この意味を説明したい衝動に駆られてしまいました。ご存じのこととは存じますが、「光」はお日様のこと。「陰」はお月様のことで、つまり「光陰」とは流れる年月、月日のことですな。それが矢のようにしゅっと流れていってしまう、そういう意味。矢が流れるがで思い出すがは、安芸のこっちの八流(やながれ)。あそこに、太平洋を見下ろす、なかなか景色の良い「レストラン矢流」がございます。
そこに置いちゃあった資料で読んだ記憶がありますが、「八流」の由来は、長宗我部元親さんと安芸国虎さんの戦いに由来する、とか書いちゃありました。史実では、永禄12年(1569年)、土佐中央部での、本山氏との大決戦を制した長宗我部元親さんは、東部を支配しちょった安芸国虎さんの所領に攻め込みます。で、現在の芸西村和食(わじき)に軍を集めちょいて、通常の海岸を攻める隊と、北の、山の方から安芸へ入る部隊とに分けました。で、海沿いの現在の八流で合戦をやりました。その際に、こぢゃんとどっしこの矢が飛び交うたので「矢流」になったという説。因みにその戦は長宗我部軍の勝利で、安芸氏の軍勢はそのまま圧されて安芸城へ逃げ込み籠城。城攻めには苦戦するがですが、安芸氏に内応者がでて、安芸城搦め手の、北の山中から総攻撃をかける手引きがなされ、安芸氏は滅ぼされたのでありました。
で、「八流」にはもうひっとつ、その名称由来の普通の説があります。この合戦のあった丘の下へは、山の方からたくさんの流れを集めた川が流れ込んで来ちゅうので「八流」。そのまんまですな。
さてさて、前置きが長うなりましたが、ここは野市町の上岡八幡宮。朝から南国工場へ来ちょりましたので、この氏神様にちくとお参りしてきました。前にも書きましたが、あの鳥居は建立が嘉永4年(1851年)という古いものです。左手の先っぽがとんがった標柱が、何度もご紹介した、安政の南海大地震で津波がここまで上がってきた、ということを記すもの。地元の歴史とともに長い長い光陰を過ごしてきた上岡八幡宮さんです。