天保6年の潮江天満宮〔1538〕2007/07/02
2007年7月2日(月)曇ったり降ったり
今朝はお日様が雲の合間から照りつけるお天気でした。で、早朝のたつくりを終えて会社へ到着した直後からしっかりとした雨が降り始めたのであります。やっとこさ梅雨でしょうかね。
ここは、まだ晴れちょった早朝の潮江天満宮。一昨日の夏越祭「輪抜け様」の余韻がなんとなく漂う境内です。昨日が日曜日で高知市のゴミ収集施設がお休みやったので、一カ所に大量に積み上げられたゴミを、収集車が回収しゆうところでした。
ここは天満宮梅林の北西隅。牛の臥像のところから石段を降りた所。この左右、参道から少し奥まって見えにくうなった場所に、古そうな燈籠が鎮座しちょります。
先日、6月27日のにっこりでご紹介した玉垣の文字の彫り方と似いちょります。そこでじっくり見てみることにしました。参道側に向かう面には「奉献」という字の古い字体が彫られ、反対側には「天保乙未 季秋」と。天保乙未は、計算してみると1835年、つまり天保6年ですきに、あの玉垣よりは4年前に奉献されたものということが判ります。この時期、ニッポンはどんな情勢やったかと言えば天保の大飢饉の真っ最中。その時期にこの燈籠が建てられ、飢饉が収束したと言われる天保10年に玉垣が奉献されちゅうというのは、何か意味があるがでしょうかね。想像が膨らみます。
天保と言えば赤城山の国定忠治を思い出します。天保の大飢饉の時代、貧しい百姓たちを救うた英雄として芝居やら講談やら浪曲やらで有名。こないだ、忠治の子孫と、忠治に敵対して討たれた侠客、島村伊三郎さんの子孫、それに、同じく忠治に討たれた目明かしの三室勘助さんの子孫で、170年の歳月を超えて「手打ち」した、てなニュースがありました。歴史はつながっちゅうがですね。天保の時代の燈籠を眺めてそんなことを考えると、臨場感が溢れてくるのでありました。