田辺島、隼人神社、福留隼人さんと禁酒令〔1039〕2006/02/18
2006年2月18日(土)高知は快晴!
今日もよう晴れちょります。朝のうち南国工場へ行ったあと、本社へ帰って市内から大津界隈をたつくりに行っちょりました。久々の舟入川、国分川界隈です。
ここは田辺島(たべしま)。高知市大津の、国分川沿いにある古い古い集落。何故田辺島という地区名かと申しますと、その集落の真ん中にあるご覧の山が「田辺島」というから。ここは、中世の頃まで海でした。五台山(大島)、高知城のある大高坂山、その北西の小高坂山、葛島、洞ヶ島、比島に、この田辺島を加えて浦戸湾七島と呼ばれよった、湾に浮かぶ島やった訳ですね。
戦国時代、長宗我部の時代頃には、現在のように陸続きになっちょったみたいです。この小山を取り囲むように、集落が形成されていきました。
ここ田辺島を拠点とした武将に福留親政さんがおりまして、長宗我部元親の家老となり、武勇をもって知られました。1577年に伊予で戦死しますが、その息子隼人さんも武勇と知謀にすぐれ、「福留の荒切」として勇名を馳せます。有名なのは次の逸話。あるとき長宗我部元親さん、酒は禍のもととして禁酒令を発布します。領内での飲酒や酒の売買は禁止。ところが、福留隼人さんが通行中、元親さんのお城へ酒樽を運ぶ一行に遭遇。隼人さんはいきなりこの酒樽を打ち砕き、叫んだ言葉が「諸人の鑑となる人が自ら法に背いては道は立たぬ。これを諌めることこそ臣たる者の道である。もしお咎めを受けて一命を失っても、もとより望むところなり!」。元親さんもたいしたもので、大いに恥じ入り、自分も禁酒をすると言いましたが、家臣に、酒は乱酒がいかんのであって、楽しい酒は天下太平の印であると諭され、禁酒令を解いたそうです。土佐で禁酒は無理でしょうな。
福留隼人さんは、九州戸次川の戦いで戦死、ここに、隼人神社として祀られることになりました。この石段の上に鎮座しちょります。
この近所に、同級生駅伝チームのエース兼監督S君が住んじょりまして、隼人神社社殿屋根修理工事奉納者という、社殿に張られた大きな板に、キチンと名前が載っちょりました。感心しながら下りて来て、走り始めた所で、声を掛けてくるおんちゃんが居るので振り向くとS君。偶然家から出て来たところでした。
儂の先祖は長宗我部の一領具足やきねえ、と、鼻を膨らませて威張っちょりました。