そして江ノ口川〔8248〕2025/11/14
2025年11月14日(金)晴れ!
良いお天気。11月中旬やけど、今日も20℃を超える予報。
さて。昨日、江ノ口川と高知パルプ生コン事件のこと書きましたが、その中で「ポコ、ポコ、とメタンガス」と書いてしまい、読者の方からご指摘を頂きました。そう。あの「ポコ、ポコ、」は、硫化水素でした。お詫びして、訂正致します。硫黄のような、卵が腐ったような硫化水素の臭い。もちろん有毒ガスで、人体にも少なからず影響がありました。そして、川底に堆積したヘドロは、今でも、干潮時には臭いが酷いとのこと。たった20年間の、県全体からしたら大したことない経済の為に、元に復するには何百年もかかる取り返しのつかないことをしでかしてしまいました。S様、ご指摘ありがとうございました。
写真は今朝の江ノ口川。中の橋から撮影しました。朝日が映えて美しい江ノ口川ですが、川底を覗き込むと、今もやはり美しくない。
さて。昭和50年に高知新聞社さんが出版した「高知県百科事典」で「江ノ口川」の項目を見てみました。執筆されてたのは、なんと平尾道雄先生だ。
平尾先生によりますれば、江ノ口川(大川)は、高知城築城の際には石材、木材、その他の資材の運搬に舟運が利用され、その後も城内米倉に米国を輸送するため利用されたとのこと。ところが、その後、中流域に堰ができる。城下の下町一帯に生活用水を供給する為に。
堰ができると、舟が往来できなくなります。そこで、堰の北端に、パナマ運河のような閘門式施設を構築、舟航の便をはかった、とあります。そしてそれはなんと明治大正期まで利用されていた、とも。つい最近ではないか。
その堰があったのは、藩政期の絵図によると、恐らくはこの写真のあたり。平尾先生が正しいとすれば、その北端に「閘門式施設」があった訳だ。舟を停めた場所に水を溜めて水位を上げ、上部の水位と同じになったところで水門を開いて進む、あの方式ね。そんな高度な施設がここにあったとしたら、見てみたかった。城下の街を彩る、そして重要な物流インフラでもあった江ノ口川。
江ノ口川の汚染による被害は、なんと、昭和26年に始まっています。昭和37年に「浦戸湾を守る会」が結成され、長く険しい運動の末、昭和46年6月に高知パルプ生コン事件が発生。翌昭和47年5月、高知パルプは正式に操業を停止。
「高知県百科事典」が出版されたのは昭和50年。生コン事件の4年後、操業停止の3年後。そんな時期に、平尾道雄先生は、「江ノ口川」の項目をこう締め括っています。
「寺田寅彦遺構に見られるように魚が泳ぎ、少年たちが水にたわむれる昔の清流に復元するためにはまだ数年の年月と市民の積極的な協力が要請されている。」
それから半世紀が過ぎたけど、魚が泳ぎ、「少年たちが水にたわむれる昔の清流復元」への道は、遠い。
