マイナスイオンの森は、どうなるんだろう〔8095〕2025/06/14

2025年6月14日(土)雨
梅雨やねー。今日はシトシトではなくて、結構しっかり降ってます。そんな土曜日。
今日は朝から会社でふた仕事ほど片付けて、山へ走りに出ました。だって、雨なんだもん。僕の大好きな雨の南嶺。マイナスイオンたっぷりの南嶺。大橋通りから天神橋を渡り、筆山を駆け上がり、高見山を駆け上り、そして土佐塾高校の脇を抜けて吉野へと駆け下る。最近走れてないので、鷲尾山はやめちょきました。
鷲尾山は、子供の頃から何十回登ったことか、わかりません。おそらく100回以上は登ってますね。小さい頃は父に連れられ。小学生の頃は、友人たちと。中学受験の前日に父と登って、その晩発熱してしまい、保健室で受験したのも思い出の一つ。今考えると、あの高熱はインフルエンザやね。40度超えの発熱でした。まあ、受験には合格したので良かったけど。
あの頃の山、今みたいに樹々が鬱蒼とはしていなかった。鷲尾山頂は360度のパノラマだったし、北斜面の登山道は灌木の道。森ではなかったこと、ハッキリと覚えてます。1986年発行の「高知県地名大辞典」にも「山頂からは、浦戸湾・土佐湾沿岸、高知平野、北山の連山などの眺望が開け」と書かれてますな。今は、南側の眺望は同じやけど、北側には樹々が生い茂って「高知平野、北山の連山」などは見えなくなりました。なんとかしたいねー。
鷲尾山の北の山に土佐塾中学・高等学校が開校したのは、その「高知県地名大辞典」が発行された翌年の1987年。絶賛工事中での開校でしたねー。まだプレハブだった食堂に、弊社の自動販売機を搬入したこと、よく覚えてます。38年前のことやね。つまりあの頃の鷲尾山は、まだ、360度眺望だったのか。
土佐塾高校が存在する現在の航空写真がこれで、それ以前の航空写真はこれ。なんの畑でしょうか。
この現在の調整池のところは、間違いなく茶畑やったけど。
深谷へ下っていく山道は、仏像構造線の道。その脇には段々畑の石積みが、今も残ります。1970年代の航空写真を見ると、その頃はまだ、何かの畑だ。
半世紀の間に、山の風景はすっかり変わってしまいました。里山にこれほど樹木が茂ったことはなかったでしょう。少なくともこの数百年は。そしてこれから人口が減っていき、山は再び原生林に戻っていくのかどうなのか。
この半世紀の風景の変遷を僕は知っているけど、これから半世紀後の風景を知るよしも、ない。今は、半世紀前にはなかったマイナスイオンの森。