三嶋村の話〔8077〕2025/05/27

2025年5月27日(火)薄曇り
一昨日、地形と地名の話、書きました。上高田の話ね。そこで今朝は、会社の南、空港界隈の地名と地形について考察してみよう。
ここは、地理院地図で見ると下島里。空港滑走路の下を抜ける小さなトンネルの南出口。今昔マップで明治末期の地図を見ると、下嶋という集落の中心地。
昭和17年、海軍高知航空隊の飛行場と基地が建設されるまでは三島村下島。いや、当時の地図では三嶋村下嶋。北に「北嶋」があり、東に「向嶋」があります。
「下嶋」の東に、物部川の旧河道である秋田川が流れており、その北側に「北嶋」、下流に「下嶋」、下嶋から見て秋田川の向こうに「向嶋」。物部川の流路が現在のように堤防で固定化されるまで、この扇状地には網の目のように川が流れていたのでありましょう。なので、あちこちに、小河川に挟まれた「島」のような自然堤防ができて、そこに集落が形成され、「嶋」がつく地名となった。そんな経緯が妄想できます。
「下嶋」「北嶋」「向嶋」で三嶋村になった、と思いがちやけど、角川「高知県地名大辞典」には、明治22年に久枝・下島・物部の3ヶ村が合併してできた村、と書かれてて、三島の「三」がどれを意味しているのかは、ちょっとわからない。いずれにしても、小河川の間の小高い地域にできた集落が点在する三嶋村でした。
三嶋村の役場は海岸近くの久枝やけど、三島小学校は北島にありました。
久枝は塩田で栄えていたけど、明治43年の塩業整備事業で全廃され、久枝地区は寒村になったといいます。昭和になって、下島の島村玄学さんという人物が久枝の塩田跡に島村農園を開き、戦後に開放されたことで、再び活気のある村になった、と、高知県地名大辞典には書かれています。
戦前の三嶋村は、二期作の穀倉地帯。ほとんどが米作農家の、良田地帯。そりゃあそうだ。弥生時代の昔からお米が作られてきた条件有利地ですきんね。そんな三嶋村も、昭和16年の海軍買収によって強制立退となり、三嶋村はなくなってしまいます。
写真は、下嶋から向嶋方向を眺めたもの。かつで眼前を秋田川が流れ、その向こうに向嶋の集落。そこには標高28.2mの「命山」があった話は、幾度も書いてきました。洪水や津波の際には住民の「命山」になってきた、山。海軍飛行場建設に際し、勤労奉仕によって取り崩され、その土は滑走路の整地に使われました。
その勤労奉仕に駆り出された少年(当時)で、現在もお元気な方をお二方、存じ上げております。