治水の光と影〔7176〕2022/12/08
2022年12月8日(木)晴れ
なんか、冬やね。冬になりました。四国山地の奥を見てみると、山の上は白くなってて、冬の到来を感じさせてくれます。
僕が所属する「土佐史談会」という歴史ある組織では、年に3回、「土佐史談」という論文集を発行してて、最新の2022年11月号は、は281号。なかなか読み応えのある論文がたくさん掲載されていて、マニアには面白い読み物になってます。
今号で興味を覚えたのは「兼山・治水の光と影(前編)」という論文。今まで、このにっこりでも随分と野中兼山さんの事績について書いてきました。藩政期初期、土佐藩の財政基盤を確立する為の農地開発や港湾整備などで残した功績は計り知れず、現代の高知県民にも多くの恩恵をもたらしている野中兼山さん。
で、今回の論文は、野中兼山さんの治水事業を科学的に検証し、今まで称揚されてきた功績だけではなく、その土木工事がもたらした「負」の部分も考察検証してみよう、という試み。これはなかなか、いい。確かに僕も、野中兼山先生の土木工事の「負」の部分については、地形と土木の観点から、気にはなっておりました。
今回の論文で取り上げているのが、仁淀川下流域での土木工事。有名な八田堰と行当の切り抜き、春野の発展については、幾度も書いてきました。そしてその上流の鎌田堰も、高岡の地を潤して農地を切り拓きました。後世の高知県人にもたらした恩恵は計り知れず。しかし、その堰の構築によって、その上流となる伊野や日高に、洪水の多発と激甚化をもたらした、と言われています。いわゆる「逆流問題」。
大雨が降って仁淀川が増水した際、その支流である伊野の「宇治川」や日高の「日下川」が仁淀川本流に流れ込めずに逆流し、甚大な洪水をもたらした、という話ね。
実際、それがどうだったのか。兼山が構築した堰が原因だったのか。兼山以前と以後の変化や、現代になって鎌田堰が撤去された以後のことなどを検証してみよう、という試みが、この論文。今回はまだ「前編」で、核心、結論に至っていないので、「後編」が待ち遠しいですねー。
今、パソコンでできる検証をやってみよう。日下川の、特に湿地帯といわれているこの界隈の海抜が14m。日下川が仁淀川に合流する地点が、約12m。
枝川を流れる宇治川が約12mで、宇治川が仁淀川に流れ込む地点が約10m。
なるほど。もちろん兼山先生の時代からは随分と地形は変化してます。堰がもたらした地形変化も大きいと思うし。
ちなみに、枝川界隈の浸水を防ぐ為に、国交相が建設したのが「宇治川方水路」。こんな感じ。上に書いた、10mの地点から八田堰下流の5.5m地点にトンネルを抜いて放水する仕組みね。考え方は、わかる。
さて。実際、兼山さんは、どのような「負」をもたらしたのか。はたまたもたらさなかったのか。
まあ、どちらにしても、現代土木の専門家が、野中兼山さんの目の付け所、技術には舌を巻くと言います。恐らくは戦国期に、戦さを繰り広げるなかで培われてきた土木技術の粋を、兼山先生は習得していたのでありましょう。そこに自分の経験や知恵を重ねていくことで成し遂げた偉業。
しかしそこにはもちろん失敗もなかった筈はないし、どこかに犠牲になってもらうことも、あった。そんな「事実」を検証していくのも、歴史を学ぶものの務めであったりも、します。
写真は、今朝の八田堰。もちろん兼山先生の時代からは幾度も幾度も改修を繰り返してきた堰ですが、この場所を選んだのは、野中兼山。
400年の時空を超えて、冬の朝の八田堰は、とてもきれいでした。