微高地に暮らす〔5993〕2019/09/12
2019年9月12日(木)晴れ
夏が続く。暑いね。暑い。
昨夜も走って帰ったけど、暑かった暑かった。会社から、東部自動車道沿いに西進し、いつものように潮見台団地の一番高いところまで一気に駆け上がる。いや~、暑かった。
で、今朝は自転車出勤。昨日走ったルートを逆に、自転車で快走しての出勤。
ここは、南国市田村。東部自動車道空港インターのちょっと西。王子川に架かる橋の上から、南の方角を撮影。夏の川が、鬱蒼として美しい。
右手に見えるのは細勝寺さん。天高山妙国院。文亀元年(1501年)に、土佐国守護代細川勝益が、曽祖父頼益追善のために建立した、お寺さんね。頼益の法号が桂昌院だったので、桂昌寺という名前でした。その頃の場所は、もうちょっと南西。大きな大きなお寺さんでした。
長宗我部元親が浦戸へ本拠を移した際、桂昌寺は種崎へと引っ越し。
その後、変遷があって、桂昌という寺号を憚って、細勝寺に改め、現在に至る。と「高知県の地名」に書いてるけど、詳しいことは知らない。
ただ。この南西に、中世、細川氏の守護代屋敷があったことは間違いなく、この界隈が土佐政治の中心でした。往時、この王子川は物部川の本流だったこともあり、水量も多く、河口近くのラグーンを通じて太平洋、そして畿内などの外界とつながっていた訳だ。
この十字の場所に立って、撮影してます。
こっから東は、物部川の旧流路が錯綜し、網の目のよう。こっから西は、広い微高地になってます。その微高地は、分水嶺。微高地から東は、太平洋へ流れる流路。西は、浦戸湾へと流れ込む流路。
ここを自転車で走ってると、旧流路、微高地の起伏を足で感じることができます。
分水嶺たる微高地。その微高地に、弥生時代初期から終末期に至る数百年間、たくさんの人々が暮らしたのでありました。標高は7mから12m。
こうやって治水地形分類図を見ると、その数百年間に物部の流れは幾多の変遷があったろうけど、微高地は、微高地でありつづけ、分水嶺でありつづけてきたことが、わかりますよね。
いやー、楽しい。
その微高地は、物部の氾濫からも、幾度か押し寄せた南海地震津波からも守られ、人々の暮らしを支えてきたのでありました。
その微高地から、弥生時代末期に人が居なくなる。
国分や比江が、盛え始める。各地に、集落ができ始める。
そして中世になり、再び、土佐の政治の中心となり、材木などの集積都市として栄え、近世になって再び静かな農村と、なる。
その幾多の変遷の理由は、この地理院地図の治水地形分類図が教えてくれるのかも知れません。
さあ。暑いけど、今日も仕事仕事。暑いのは嬉しいねー