東京、恩方村の、朝〔5960〕2019/08/10
2019年8月10日(土)晴れ!
高知はよさこい。よさこいなのに、僕は出張で昨日から東京。これもまあ、仕方ない。今晩帰るので、明日はよさこい、楽しみたいとは思ってます。高知県人ですきんね。
今日は、お昼過ぎに仕事。なので、午前中時間があったので、どうしても行きたかったここを走ってきました。そう。行ってみたかった、ここ。
こないだ、ひまわり文庫8月の新刊で、きだみのるさんの本、ご紹介しました。これ。ちょっと、本の題名はなかなか書きづらいので、ここを見てもらうしかないけど、これね。
でも、全然差別的な内容を書いてる訳ではありません。戦中戦後の時期、現在は八王子市に編入されてる恩方村という東京都の西端の山間集落に住むことになってしまった著者が、社会学的、人類学的に、いや、土俗的という表現の方が良いのかも知れんけど、その生活を見事に描きだしたのが、その本。
日本という国の、とある集落を描く訳だけども、それが日本という国の有り様を見事にデフォルメして描き出している、ということで高い評価を得ている本。
今は八王子市に組み込まれて、すぐ近くまで東京のベッドタウンなる住宅地が押し寄せてくる、恩方。きだみのるさんが描き出した風景は、今はどんなになってるんだろうか。
気になって気になって、時間があった今朝、走りに行ってたという訳です。
今はこんな場所だけども、きだみのるが生活していた時代は、こんな感じ。単写真でしか見れんけど、当時の典型的山間集落であったことは、わかります。
その、きだみのるが暮らしたという、当時の廃寺は、今はちゃんとしたお寺さんになってて、本堂も立派。
そこへ駆け上がろうとして、一人のおじさんの遭遇しました。農作業から家へ帰ろうとしていたおじさん。朝、7時頃のこと。
思い切って、訪ねてみました。きだみのるさんが、この辺で暮らしてたと聞いたんですが・・・
そしたら。思いもかけず。
「僕が子供の頃、あの向こうの、今の住職さんの家の手前、あの辺に住んでたよ。僕らが近くへ行ったら、自分で鉄砲で獲ってきたウサギとか、食べろ食べろと言って食べさせてくれたね。」
ズバリでした。
あの本では、ここの集落で暮らしてたのは14世帯。その中の1世帯でした。いやーびっくり。
そして、その方のお家や、家の裏手の、きだみのるが九州から持ってきて植えたという柚子の樹やらを教えてくれるんですね。往時の様子も。
きだみのるは、この本を出版してから以降、この地域の住民の皆さんに激しい拒否反応を為されたと言います。こんなこと書きやがって、と。
それから幾星霜。今、往時を知る人も少なくなり、こうやって訪ねてくる僕のような異邦人を暖かく迎え、説明してくれるようになりました。
あの本には、きだみのるが村の人に村の住民として認められるようになったきっかけが、村人がしょっちゅうやってた小さな博打に参加したこと、と書いてます。籤、花札、そして「ちょいぼち」というの。
そのおじさん、博打の話もこっちから聞かんのに教えてくれました。みんな言いたがらないけどな、と言いながら。そのおじさんちの墓所の墓石は、角のところが、たくさん欠けてるんだそう。それは、墓石を欠いて懐に入れてると博打に勝てる、という話があったから。「だから、うちの墓石は欠けてんだ」と、明るく教えてくれました。ああ。民俗学、文化人類学、社会学。
この写真は、その、きだみのるさんが住んでたとおじさんが教えてくれた場所にカメラを置いて、セルフで撮ったもの。きだみのるが家から見ただろう、風景。この谷の下に、集落14世帯が散らばってました。
この、眼下の墓所は、近年きれいになったんだそう。この横を圏央道が通り、すぐ近くに八王子南インター。圏央道の用地買収のお陰で、この墓所がきれいに整備されたんだ、と、教えてくれました。
でも、「道路ができて良いことは、ねえよな。音も一日中うるさいし。」と話すおじさんは、少し寂しそうでした。
ともあれ、このおじさんとの出会いによって、きだみのるの生活に触れることができたのは、僥倖でした。
確かに、近在まで住宅地は押し寄せてるけど、この谷の一角には、確かにあの戦中戦後の風景が、今も残ってるような気がして嬉しかった。おじさんとの、早朝の出会いが、時代をあの頃に逆戻りさせてくれました。
恩方村の、朝。