高知の城下の賑わいは〔5329〕2017/11/17
2017年11月17日(金)晴れ
では、高知の城下の繁華街はどこだ。
そう。今朝は高知。昨日、汽車でモンて来ました。高知も寒くなってますな。そんな高知の朝ですが、ここははりまや橋の東。NTT東局の前。
昨日、大阪ディープゾーンを走り、地形と大阪の繁華街について考えました。では、高知は。
幾度も書いてきたように、高知城の周囲は郭中と称され、上級武士の居住ゾーン。そして、こないだブラタモリでやった盛り上がりのつちばしから東が、下町。しもまち。下級武士と商業ゾーン。
藩政期の絵図を見ても、縦横に巡らされた堀を中心に都市ができがっていることがわかります。大阪や江戸みたいに、洪積台地による起伏がないですきんね。
で。高知の城下の水運は、縦堀と横堀の交差点でもある、現かるぽーと前界隈が中心であたことは、絵図を見たらはっきり判ります。その水辺に展開されたのが、その当時の繁華街。
写真。左手に見える欄干は、土佐橋の欄干。昭和40年頃まで、この下を堀川が流れていました。この向こうへ堀川跡を西進するとはりまや橋。
右端に、はりまや橋商店街のアーケード入口が見えますよね。以前は「中種」と呼んでいた商店街。
そう。中種。中種崎町だ。つまり、ここを東西に流れていた堀川の北側は種崎町。藩政期初期、山内一豊の都市計画で、種崎界隈に住んでいた人々が移住してきてできたのが種崎町。やはり、水運関係の人が多かったのでありましょう。
堀川の南側が浦戸町。もちろん、浦戸の城下町から移ってきた人々によってできた町。
たぶん、この界隈が、高知の城下の繁華街であったと思われます。賑わいは、水辺に湧き上がることが多い。
郭中に住む偉い武士も、この辺に住む町人も、東の新田に住む農民も、この繁華を楽しみに来たと思う。いわゆる「おまち」。僕らが子供の頃、大丸を中心とした帯屋町へ遊びに行くことを「おまちへ行く」と言いよったように、江戸時代の人も「おまち」へ遊びに出かけたんだろうか。
城下町建設の際、種崎町に播磨屋、浦戸町に櫃屋という豪商が移住してきて、商売を営む。その両家の間に架けられた私設橋が、播磨屋橋。土佐人にとっては常識中の、常識。
だが、そもそも播磨屋さんとか櫃屋さんとか、関西の商売人が土佐へやって来たのはいつ頃で、その理由は?
どうやら、秀吉と対立した根来衆、雑賀衆が関係しているらしい。実権を握った秀吉は、土豪の力を削いで中央集権を進めようとする。それに抵抗した根来衆や雑賀衆。
で、そんな戦乱を避けて土佐に一向宗門徒がやってきて、集住を始めたらしいんですね。根来種という話もあるけど、一向門徒なら雑賀衆だ。
雑賀衆には鉄砲技術者や商人もたくさんいた。そんな集団が土佐にやって来て、浦戸や種崎界隈に住んだのかも知れない。
そして、山内一豊が大高坂山を中心に城下町建設を始めると、そこへやって来て、有力者となった。財力、技術力は、土佐の在地の商人職人に比してかなり秀でておったのでありましょうか。
そんなグローバルな人の移動と権力構造の変化、財力などによって、初期の高知の城下が形成される。そして水運の町として発展し、水辺に賑わいが創出だれた。
この写真は、そんな場所を撮影したもの。
高知の城下の賑わいは、ここが中心だった。