廿代町、廿代橋界隈〔5246〕2017/08/26
2017年8月26日(土)薄曇り
暑い。暑い夜だった。朝まで扇風機まわしっぱなし。
で、午前中、会社へ行ってましたが、この暑い中でも、工場見学のご一行様15名、いらっしゃって下さってました。ありがとうございます!見学、ご満足いただけましたでしょうか。
さて。
ここは廿代橋のたもと。にじゅうだいばし。南詰。左手を流れるのが江ノ口川。ここに、大正9年に建立された「廿代橋通」と刻まれた碑があるのをご存知でしょうか。台座に、この碑を立てた発起人数名の氏名が刻まれてます。もともと、ここに所在した大工頭の加藤さんの邸が、廿代(120坪)の広さであったからとか、そうではないとか、諸説ありますが、今も昔も廿代町。
その廿代町の北側、江ノ口川に架かる橋が廿代橋。最初に架けられたのは寛文年間と言いますき、古い。17世紀だ。
幾度か、このにっこりでも書いてきましたが、基本的に土佐藩の上級武士は、郭中に住みました。東西は大丸の界隈から枡形まで、南北は鏡川と江ノ口川までが、郭中。ただ、江ノ口川の北岸にも、上級武士、住みましたね。厳密に言うと郭中ではないけど、郭中と一体化していた江ノ口川北岸。一体化のために架けられた橋のひとつが、廿代橋という訳だ。
右手に見える大きな建物は、近森病院さんのリハビリテーション病院の立派な建物。ここは、以前は、ボウリング場だった。子供の頃から何度通ったことか。大人になっても、二次会ボウリングで楽しんだボウリング場。現在はリハビリテーション病院。
そこで1974年~1978年の地理院地図、航空写真を見てみよう。これ。ボウリング場は、すでに見えます。高知駅の南、高知橋と廿代橋の間の南側、長方形の大きな建物が、ボウリング場。川の北側には近森病院もありますが、そんなに目立つような建物ではありません。
現在の航空写真は、これ。辺り一帯、近森病院様の施設がひしめく町になりました。すごいですね。ヘリポートも完備し、高知にとってなくてはならない救急医療、高度医療の病院になった、近森病院様。
近森病院が江ノ口川北岸に「近森外科」として開院されたのは昭和21年12月と言います。戦後間もなく。復興の槌音が響く高知の町に、開院しました。
昭和22年12月の航空写真が、これ。拡大して、見てみてください。病院の建物、見えます。川の南のボウリング場の場所は、まだ、運動場か空き地みたいに見える。
今は高知随一の飲食店街が広がる廿代町も、当時はまだ、焼け野が原といった風情。
藩政期の絵図を見ると、大丸のところから北に延びる堀が、この写真の場所の東側で江ノ口川と繋がっている。江ノ口川と鏡川に挟まれた城下町は、そんな堀が縦横に走る水郷都市だった。
江ノ口川の北側、川沿いにも武家屋敷が並んだのは、水辺の空間が住みやすく美しかったからだと思う。大川筋に残る武家屋敷は、そんな城下町の有り様を、今に伝えてくれる貴重な痕跡。
そういえばこのにっこりで、大川筋の武家屋敷、紹介したこと無いかも知れない。今、気付きました。もう14年もやってるのにね。