浦戸城と元親の想い〔5170〕2017/06/11
2017年6月11日(日)降ったり止んだり晴れたり
午前中、梅雨の雨のような感じで少し降りましたが、午後になると晴れ間が。
午後は会議やらで用事が立て込む日曜日なので、午前中、走ってきました。途中、雨が降ってきて心地良いRUNになりました。浦戸湾東岸~浦戸城址。
故あって、浦戸湾東岸から種崎にかけての地形を確認したかったので、突然思い立ってそのルートにしてみました。そう。今日は楽しい地学ネタ。日曜日ですきんね。許してください。少しだけ長いですよ。ごめんなさい。日曜日の地学ネタ。
考えてみると高知の城下町、つまり市街地は、興味深い地形の上にある。浦戸湾という湾の存在が、太平洋岸に伸びる土佐の海岸線の中では特異なもの。これほど深く切れ込んだ湾、というのが、他には存在しない。須崎の野見湾とかもありますが、あの湾は外に向かって広がっていく形状。浦戸湾は、入り口が狭く、中が広くなっている。
これは、南海トラフでの、フィリピン海プレートの沈み込み方によってできた地形だと思います。室戸岬や足摺岬は、南海地震のたんびに隆起を繰り返して、あのような高い海岸段丘となりました。反対なのが、浦戸湾。
浦戸湾の出口は、幾度かご紹介したように、2万年近く前のヴュルム氷期には、今よりも海水面が100m以上低かった。高知の城下も、その頃は今より数十メートル低い土地。四国山地からの川が、急流となって太平洋に流れ出る。
その地形は、室戸や足摺が隆起する際、真ん中の部分が沈降することによってできました。
東孕と西孕の間が、沈降によって深い谷となった。2万年前は急流の流れる渓谷だったでしょうな。高知県を、室戸と足摺の部分を持って持ち上げたら、浦戸湾のところでペッキリ折れた、みたいな感じでしょうか。違うかも知れんけど、そんな風に想像したら、なんとなく理解できる。できませんか?
室戸岬と足摺岬を両手で持ち上げたら、浦戸湾のあたりがペッキリ折れた。
で、その後の地球の気温上昇、海水面上昇に伴い、渓谷には土砂が堆積し、高知の城下にも土砂がどんどんと堆積して、いつしか浅くて広い湾になり、そして更なる堆積で陸地となって高知の城下は街になった。そんな歴史。
写真は浦戸城址。
浦戸大橋の、昔、料金所があったところから遊歩道があって、龍馬記念館のところにつながってます。その遊歩道の途中。長宗我部元親さんが本山氏のつくった城を改修してつくった平山城、浦戸城。海沿いの連山の尾根をうまく利用して縄張りしました。このページに絵図があります。この「浦戸古城之図」の「三」と書かれた場所が、ここ。向こうに「本城」のある詰の段が見える。
良い城だ。この遊歩道は、尾根に築かれた城を足で体感できる。良い遊歩道だ。
もっと整備して、案内板、説明板を立てたら良いのにね。
惜しむらくは、詰の段が、龍馬記念館と桂浜荘の建設によって破壊され尽くしてしまったこと。
詰の段には天守台が残ってます。この絵図に「五間四方」と書かれた場所。今は鬱蒼とした樹々に囲まれ、城八幡と山祇神社が控えめに鎮座。
まずは、樹々を伐ろう。すると、元親や盛親、それ以前だと本山梅慶、それ以降だと入国してきた山内一豊が見た風景、地形が見えるようになるのに。地形が見えたら、何故、元親がここに本拠を移したのか、理解できるかも知れないのに。
僕は思う。
秀吉によって土佐一国に押し込められてしまった元親。しかし、どうしても元親の想いや夢は、土佐の外へと膨らんでゆく。
陸側を秀吉に抑え込まれたら、残る方向は一つ。海だ。海へ出て行こう!
そこで、まずは大高坂に本拠を移した。しかし、まだそこは湿地帯で、大きな船の往来には不便。海へ海へと前のめりになる元親。そして。土佐の外へと膨らむ夢が形のなったのが、浦戸城ではなかったのか。
今日、この浦戸城址を走っていて、そんな妄想が突然頭の中に湧きあがってきました。
ああ。真相は永遠に謎のままだが、ここの風景を、元親の頃の風景に戻したら、もっともっといろんなことが理解できるのかも知れません。元親の「想い」とか。
企業経営でも、そう。大切なのは、「想い」。