渡し場はここだった〔4955〕2016/11/08
2016年11月8日(火)小雨
冷たい雨。今日は一日降るのでしょうか。
そんな訳で、昨日は嘘をついてしまいました。昨日の、川に突き当たる小径。あの先に、かつて、橋が架かっていたのは間違いない。本当。しかしあの小径は旧街道ではありませんでした。間違い。嘘。勘違い。
まあ、間違いは、このにっこりひまわりではよくあること。気にせんとって下さい。と、開き直るのは良くないですね。開き直るその態度と言えば、三年目の浮気ですが、今日はアメリカ大統領選挙。誰が作ったのか知らないが、YOU TUBEにこんなのがありました。こんなの、誰が作るんだろう。
それはともかく、今朝、調べてみますれば、旧街道の渡し場は、現在の大きな物部川橋のところにありました。ここ。物部川左岸、つまり香南市側の、橋の袂に、このような標柱。
「旧下街道渡し場跡」とハッキリ刻まれた、標柱。この標柱の横には説明板が立てられています。そこには「旧下街道の渡し場跡 赤岡と高知を結ぶ旧下街道の渡し場がこのあたりで、往時は船宿もあり、賑わいをみせていたようです。明治34年、上流150mの所に物部川下の橋(通所ヤケバシ)ができるまでは、人々はこの渡し舟に頼っていました。 香南市教育委員会」と、書かれている。
そう。そうなんだ。色んなことが判ってきました。
まず、この写真の大橋が架かるまで架かっていた橋は、木造。「物部川下の橋」と呼ばれ、通称は「ヤケバシ」であった。架かっていた場所は、昨日の写真のところ。
かつての街道、下街道は、今朝のこの写真の所の渡し舟で、物部川を渡っていた。
勉強になりました。土佐下街道は、高知の城下から五台山の南を通り、稲生、里改田、前浜、久枝を経由して、ここで物部川を渡る。で、吉原、を通って赤岡で土佐東街道と合流する。そんな街道でした。
ここに渡し場があった、という標柱は、香南市教育委員会によって立てられちょります。良いこと良いこと。実は、この対岸である西岸も、香南市なんですね。この橋から南の一部が、飛び地として香南市になっていることは、以前にも書きました。吉川村の頃から、飛び地。どうしてなんでしょうね。渡し場を一括して管理する為に、両岸を同じ村にしたんでしょうか。
そう言えば、いつもの野市、上岡村にも物部川の渡し場があり、上岡は昔は西岸の物部庄に属していました。
渡し場は、同じ村が一括して管理する、という約束事でもあったんでしょうかね。いや、きっとそうだ。
さて。全然関係ない話ですが、今日は11月8日。昨日は11月7日でした。そうだ。2016年11月7日と言えば、築地市場が豊洲へ移転する日だったではないか。
今年8月27日、豊洲市場の建物に「11月7日 豊洲市場 開場!」と書かれた横断幕が掲げられちゅうのをご紹介しちょります。あの時は、小池都知事が誕生したばかりで、嵐の前触れはありましたが、まさかこんなことになるとはね。世の中、何が起こるかわからない。
あの横断幕、今はどこにあるのだろうか。貰い受けて、記念品にとっておきたい。きっと、将来、値打ちが出ます。
まあ、当面、東京出張の折には築地を楽しむことと致しましょう。