元々の弘化台と弁天様〔4835〕2016/07/11
2016年7月11日(月)曇り
昨夜は蒸せました。気温が高かったと言うよりも、蒸せた、という感じ。湿度が、高い。
なんかこう、ねっとりとした空気が充満しちゅうような、そんな感じ。写真は、今朝、4時過ぎの鏡川河口。鏡川大橋の下の堤防から弘化台方面を撮影してみました。
左手に見える灯りが弘化台。
鏡川の川面。白い靄が立ちこめている川面。これだ。
空には雲。そして、こんな感じの水分たっぷりの空気が、夜明け前の街を覆っておりました。蒸せます。
弘化台。
昭和42年、高知市中央卸売市場が開設された、人工島。
人工島ですが、元々、そこに弘化台という小島があり、その小島を含んだ形で埋め立てられ、整備された島。
では、当初の弘化台はどこにあったのか。
この写真には写っちょりませんが、この左手に、丸山台という島があります。こないだ、久々に徒歩上陸を敢行した、あの島だね。で、弘化台は、その丸山台の向こう側、つまり五台山寄りにありました。丸山台よりも少し小さい、島。
そこに、弘化年間(1844〜1847)、砲台が建設されたので、弘化台と呼ばれるようになったとか。
ペリーが黒船で浦賀へやって来たのは嘉永6年(1853年)。東京のお台場に迎撃用の砲台が整備されたのは、ペリーさんがやって来てから。
と、言うことは、ペリー騒動よりもかなり前に、浦戸湾に砲台をこさえた、ということになる。で、調べてみますれば、幕府も、弘化2年(1845年)に、浦賀に砲台を構築しちょります。その頃、土佐でも、ここに砲台構築。なんとなく、危機感があったんでしょうかね。
現在の弘化台の東側に、ミロク製作所の捕鯨砲試射台の跡があります。以前、ご紹介しました。まだ、弘化台が埋め立てられるずっと前に作られ、使われた試射台。
その四角い人工島からは、五台山に向かって岩が並んでいる。
これはですね、「高知平野の地形と沖積層」という論文の、「沖積層基底面図」というのを見てみますれば、五台山から繋がってきた、五台山の山塊の先っぽ、ということが、わかる。
以前、あの四角い人工島が元々の弘化台なのかと思うておりましたが、違います。
元々の弘化台は、現在の弘化台の北西部。丸山台に面した場所に、ありました。
明治40年、昭和8年の地図を見てみると、元々の島が描かれている。そこには鳥居のマークもあるので、お宮さんが祀られちょったことも、わかります。
なるほど。
現在の弘化台、中央卸売市場の北側。弘化厳島神社というお宮さんが、あります。ひょっとしたら、このお宮さんが、元々の弘化台に鎮座ましましちょったお宮さんなのかも知れない。いや、きっとそうだ。埋め立てや工事によって神社を壊さないかんなった場合、まずは移設を考えますもんね。バチが当たったら嫌ですき。
弘化厳島神社か。
昨日、星神社と妙見様のことでも書いたように、厳島神社は、明治になるまでは弁天様。
浦戸湾に浮かぶ島の弁天様が、弘化台の弁天様になり、そして弘化厳島神社になった。そして、市場の北側に遷座してきた。そんな歴史が見えてきたぞよ。