桑田山の歴史、朝の雨の神社〔4544〕2015/09/24
2015年9月24日(木)雨
よく降ります。高知県中部に洪水警報が出ちゅうがにはビックリしました。夜から、しっかりした雨足で降り続いております。
昨日、西佐川駅から尾川、不動ヶ岩屋、斗賀野を経由して桑田山温泉まで走ったことを書きました。文章が長くなって、桑田山のことが書けんかったので、今日、書きます。
桑田山。そうだ山。
伝説では、弘法大師が四国霊場八十八ヶ所を開くに際して訪れ、桃の花が満開であった山の美しさに感動して「桃の花に染んだ山」と嘆賞したので、そうだ山と呼ばれるようになった、とのこと。成る程。平安時代か。
虚空蔵山と蟠蛇森の間、桜川に沿って開けた集落。水の便も良かったのでしょう。土質にも恵まれちょったのではないでしょうか。古く、下鴨神社領津野庄に属した、と、平凡社刊の「高知県の地名」にあります。
昨日入浴した桑田山温泉は、温泉前の説明板によりますれば、上記弘法大師が「桃の花に染んだ山」と嘆賞した際、湧き出る温泉の効能を村人に教えたのが始まりだそうだ。
切り傷、皮膚病、神経痛、リュウマチ等はもとより、飲んでは、五臓六腑を癒し万病に効く、と伝えられてきた、とも書いちゃある。そう言えば、3年前に入浴した際には、腕を切断された方が入りよりまして、ここのお湯が効く、と言うておったのを思い出しました。
温泉から、隣の集落へ行く尾根の上に鎮座ましますのが桑田山神社さん。津野氏が支配しておった時代に、箱根権現を勧請して祀ったのが始まり、と言います。明治の廃仏毀釈までは「一の権現」と呼ばれておったそうな。室町時代には、既に鎮座しちょったことがわかっちゅうそうです。その頃の社殿は、とっと上の大影山。で、享保四年(1719年)に社殿が焼失、ずっと下りてきて御立藪に新しい社殿が立てられる。そこは女人禁制やったので、800m下の、現在地に拝殿をつくって夫人の遥拝所とし、そこに再び社殿が建てられて現在に至る、と、これも「高知県の地名」に書いちゃありました。
その神社には、嘉永五年(1852年)の鼻高面が所蔵されちゅうとのこと。そう言えば、昨日お参りした際に、嘉永七年銘や嘉永五年銘の石灯籠を見つけました。安政南海地震のちょっと前。ペリーが浦賀にやって来る直前。その頃、一の権現を特に熱心に尊崇する人々が、桑田山に居た、ということが推察できまますな。産土神として、古くから尊崇されてきた一の権現、桑田山神社さん。
さて。
今朝の写真は、赤岡町の須留田八幡宮さん。地域の皆さんに尊崇、ということで言えば、このお宮さんも、赤岡の産土神として古くから大切に祀られてきました。
雨が降りしきる夜明け前には神社がよく似合う。
これは、小生が昔から感じゆうこと。神社の神性、厳粛さ、荘厳さが、雨に包まれて一層引き立つ。雨が降りしきる夜明け前、須留田八幡宮さんは、いつもにも増して荘厳。