布師田の信念〔4435〕2015/06/07
2015年6月7日(日)薄曇り
晴れたり曇ったり。雨は降りません。明日は雨になる予報。本格的な梅雨は明日から。
今朝は、高知市北郊、秦泉寺から、ながおか温泉まで走ってきました。12km。日曜日にしては距離が足らんような気もしますが、まあ、それはそれ。内容は実に充実したランでした。
秦泉寺から薊野。あぞの。そして、一宮のバスターミナルのところから布師田へ。この道は、かつての街道。高知の城下から笹ヶ峰を越えて川之江へ抜ける土佐北街道も、安芸や室戸へ向かう土佐東街道も、そのルート。
藩政期には、土佐北街道と土佐東街道の分岐は中島。現在の南国市中島。明治期になっても、この街道が主要街道であることに変化はありませんでしたが、北へ向かう街道と東へ向かう街道の分岐は布師田界隈にあったにかありません。
藩 政期。高知の城下を山田橋から出ると、街道は比島下を抜けて布師田へ。布師田の岩淵というところに馬継、つまり送り番所が置かれておりました。最初の番 所。なので、栄えた訳だ。布師田にある西山寺は、他藩からの重要なお客さんを迎え、案内する役割を持っておったとも言います。なかなか、今からは想像もで きんくらい栄え、重要であった布師田。
ここからは、多くの義人、矜持、信念の人が輩出されちゅうことは、以前にも書いてきました。
布師田小学校のところから国分川へ出てきた土手に、このような木製の標柱が立っております。
まったく同じように見える2本の標柱。
側面には、2本とも同じ文章が書かれちょります。
「義人旧跡道標を建つ 平成十三年四月」
正面の文字。
右側の標柱には「岡村十兵衛先生墓所 これより 三百米」
左側の標柱には「一木権兵衛先生墓所 これより 二百米」
少し文字が消えて読み取れませんが、布師田が生んだ二人の義人の墓所が、この近くにあることを示しております。
そう。一木権兵衛さんについては、何度も何度もご紹介してきました。野中兼山の土木工事の大部分を、現場責任者として指導した一木権兵衛さん。ここ布師田の権兵衛井流についても、ご紹介しちょります。室津港の改修を完成させ、壮絶な最期を迎えた一木権兵衛さん。
岡村十兵衛さんについては、こないだ、室戸市羽根の鑑雄神社をご紹介した際に書きました。後世まで長く語り継がれ、明治に入って神社まで建てられた義人、岡村十兵衛さん。
ここから東へ走りよりますと、地元の人々によって、布師田出身の偉人についての説明板が次々と現れます。植木枝盛や奥宮建之と藩校致道館で同窓で、東京帝国大学に進んだ後、帰郷。高知中学校などで教鞭をとり、濱口雄幸や大町桂月を教えた、前田元敏さんの墓所の説明板。
更に東へ行くと、奥宮慥斎、健之親子の邸跡。
陽明学者で、土佐の志士たちに多大な思想的影響を与えた奥宮慥斎。弟子には岩崎弥太郎、長岡謙吉、中江兆民などなど、多士済々。
その三男、健之は、自由党結成に参加するなど政治活動を深め、植木枝盛とともに政談演説を各地で行ったりしました。そして。
幸徳秋水に爆弾製造方法を教えた、という嫌疑をかけられて死刑。大逆事件の犠牲者、奥宮健之。
この、布師田という狭いエリアから、信念、矜持、志、といった言葉が実によく似合う幾多の偉人を輩出した訳だ。
そんなことを思いながら、国分川右岸を遡上、蒲原から高知大学医学部前、そして岡豊山の裾を通って国分へ。国分川を渡り、ながおか温泉。