聖坂、火知り、阿含宗、普連土〔4380〕2015/04/13
2015年4月13日(月)もうまあ降りそう
そんな訳で今朝は東京。昨日は少し晴れ間も出ちょった東京ですが、今にも雨が落ちてきそうな空模様。
昨夜は品川泊まり。で、もちろん朝は築地ラン。で、築地場内にて焼き鳥丼と、焼き餅が入ったお汁粉を食べてきました。ああ。朝っぱらから、おいしい。
今日は、高輪台の尾根筋の道を北上してみました。旧東海道、つまり国道15号線と、桜田通り、つまり国道1号線の間を南北に走る道。この道、どうやら、藩政期になる前からの街道にかありません。そりゃあそうだ。洪積世に形成された台地の東端。台地の稜線上には、太古の昔から道が通り、江戸時代になると寺院や大きな武家屋敷がつくられた、そんな通り。
尾根上の道を基本にして、そこから両側へ下っていく斜面に、寺院やお屋敷がつくられたことは言うまでもありません。台地の湧き水を利用した池なども、その庭にはつくられました。今も、この高輪台の上にはお寺さんや巨大な建物が多いですが、それは、江戸時代の街並みを継承しちゅうきと言えるでしょう。
ここは、その道が慶応大学の東側へと下っていく坂。聖坂、という坂。
坂の途中に「聖坂」と書かれた標柱が建てられ、説明文があります。
「ひじりざか 古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂と呼んだとする説もある。」
そう。藩政期になり、この尾根の東側の海沿いに東海道が開設されるまで、この尾根筋の道の方が街道であったのでありましょう。
高野聖。
日本には、古くから山岳信仰があります。山を崇拝し、信仰する土壌は、それこを太古の昔からありました。そこに仏教が習合します。特に、空海がもたらした密教とは密接に結びつき、日本独特の、神仏習合の山岳信仰形態、修験道と言われるような形態がつくりあげられてきたのはご承知の通り。
弘法大師が開いた高野山を中心とした信仰も、その、高野聖と呼ばれた僧の往来によって全国に広まっていったのでありますね。
修験道は、山岳信仰を体系化し、単体の山だけではなく、稜線を縦走しながら修行する「峰入り」なども行われるようになりました。で、山伏などとも呼ばれた修験者は、護摩を焚いたり火渡りをしたり、と、火をコントロールします。なので、火を知っちゅう。火を知る。で、聖という言葉は火知りからきちゅう、という説もあるのでありますね。
で、ここで気付いたことがあります。この右手の建物。これ、阿含宗さんの施設なんですね。東京エリアの本部やと思います。阿含宗と言えば、あの、炎の祭典「星まつり」が有名ではありませんか。おびただしい護摩を炊く、火のお祭り。
聖坂に阿含宗。なるほど。
その左手の建物。この写真では見えにくいですが「普連土学園」と書いちょります。なんの気なしに通りながら、この界隈にはお寺さんも多いので、仏教系の学校かな?と思いながら、今一度よく読むと。普連土学園。そうか。フレンド学園か。
で、ホテルに帰ってからネットで調べてみました。クエーカー系のキリスト教の学校なんですね。明治20年、アメリカに留学中の内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、クエーカーの婦人伝道会が、女子教育を目的に創設したとか。
で、この「普連土」を考えたのは、津田梅子のお父さんの津田仙。「普(あまねく)世界の土地に連なる」、転じて「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いから命名、とありました。
東京の古い道は、いくらでも面白い話題が溢れちょって、走りよっても飽きません。