比江廃寺跡、比江山、七人みさき〔4270〕2014/12/24
2014年12月24日(水)快晴!
今朝は高知。良いお天気。昨日、九州から国道九四フェリー、そして八幡浜から大洲、梼原、須崎を通って帰ってきました。途中、梼原界隈はかなりの積雪でございましたね〜。雪国、土佐になっちょります。
さて。昨日、大分市の古国府、ふるごう界隈をたつくりましたので、今朝は土佐の国府界隈。南国市国分にあったとされる土佐の国府。その東側には比江山があり、その山裾に比江廃寺跡があります。今朝は、その、比江廃寺跡を撮影してきました。
この楕円形の大きな石。これは、五重塔のような塔の心礎部と思われる石。この心礎を中心に方36尺(11.6m)四方の栗石乱積みの塔基壇基底部がある、との発掘結果。この辺りに、広大な伽藍をもつ寺院があったと思われます。時代は白鳳。つまり奈良時代の前で、これは古い。土佐では、秦泉寺廃寺と並ぶ最古の寺院として知られる比江廃寺。
国分川の自然堤防上にあるこの場所は、弥生文化終焉後の土佐でも、かなり早い時期から栄えてきた土地であると思われます。
ここが比江、という地名になったのはいつの頃からでしょうか。土佐にも、日吉神社との関連が想像できる場所がいくつかあります。ここ、比江はもちろん、香我美町の稗地なんかもそうでしょうか。山王権現信仰と結びつく、日吉神社。日吉。日枝。稗。比江。
写真の、向こうの山が比江山。その比江山に、日吉神社が鎮座まします。一般的に、日吉神社の御祭神は大山咋神。比江山の日吉神社さんも、そう。国衙官人の公文氏が、比叡山の山王権現を勧請してきたことに始まる、とされます。
日吉神社の信仰、元々が比叡山への信仰。これはもう、古い、山の信仰。で、平安京が成立し、比叡山は鬼門の方角の神として、さらに篤く尊崇されるようになったそうです。そして最澄。最澄が比叡山に延暦寺を開いた際、元々の比叡山の神を、延暦寺の守護神として祀り、山王権現と呼ばれるようになった、とあります。なるほど。
天台宗と日吉神社。神と仏の境界が緩やかであった時代、同じように尊崇された訳だ、天台宗の広がりと日吉神社の広がりは、平行して行われたにかありません。
比江。
山王権現が勧請されてきて、比江という地名が成立したと思われます。
戦国期、比江山に城を築いたのは、長宗我部元親の従兄弟、比江山親興さん。以前にも書きましたが、元親後継を巡って元親に諫言し、大高坂の城で切腹させられた比江山親興。親興さんの妻子四人と従者二人が比江山城から脱出し、改田の勝福寺に逃げ込んだ、と、前回書きました。その改田は、現在の里改田ではなく、上改田。上蚊居田。現在の新改。
そこで匿うたお坊さんと合わせて七人。結局捕縛され、新改川原で斬殺とも切腹とも。
比江山城から新改川原の方に火の玉が飛ぶ「七人みさき」の伝説は、比江山一族の無念を今に伝えてくれます。比江山神社は、その魂を鎮める神社で、あの山中に、今も静かに鎮座まします。
クリスマスイブというのに、何の話をしゆうやら。