浅草橋、銀杏岡八幡宮さん〔4262〕2014/12/16
2014年12月16日(火)晴れ
今朝は東京。新橋で飲み、浅草橋に泊まっちょりました。で、早朝から浅草、そして築地までのランをこなし、築地場外の「井上」と「若葉」でラーメンを食べてお腹いっぱい。
ホテルに帰り、シャワーを浴びてお仕事に出発。
と、ホテルのネキに、イチョウが見事なお宮さんがありました。その名も銀杏岡八幡宮さん。そんなに広くはない境内ですが、都会の真ん中にポッカリと空いた美しい空間。通勤途中の老若男女がその境内を抜け、頭を下げて通ってゆきます。
拝殿脇に、由緒が書かれちょりましたので読んでみますれば、なかなかのお宮さんでした。登場する人々が有名人だらけ。
八幡宮さんなので、御祭神はもちろん応神天皇。で、八幡様と言えば源氏。
源氏の八幡信仰と言えば八幡太郎義家。後三年の役で有名な、源氏の英雄、源義家。その源義家が若い頃、父の源頼義とともに戦ったのが前九年の役。奥州の安部貞任、宗任を平定するべく遥々出陣した源家の頭領。
でですね、その出陣の際、奥州街道(現在も東側を国道6号線、つまり奥州街道が通っちょりますな)北上中に、ここを通りかかったそうです。
ここは小高い丘で、隅田川が一望できる絶景の場所であったと書かれちゃあります。
そう言えば、浅草は、江戸に街が形成される遥か昔から、人々が住んでおったようです。湾に突き出した半島、洲のような小高い場所が浅草であったと記憶しちょります。
で、頼義、義家親子がこの小高い丘で小休止中に、隅田川を上流から流れてくる銀杏の枝を発見、拾い上げ、丘の上に刺し立てて「朝敵退治のあかつきにはこの枝葉栄ふべし」と祈願して出立。そして、安部一族を成敗して、再びここへ戻ってきました。その時、丘の上の銀杏は成長して大きく繁茂しておったので、八幡太郎義家、神威に感謝して太刀一振りを捧げ、八幡宮を勧請した、という由緒。康平五年(1062年)のこと。
なるほど。八幡太郎義家ゆかりの八幡様か。これはなかなか。
その後、藩政期になって福井藩松平家の屋敷地になり、邸内社として尊崇されるも、享保10年(1725年)に公収されて町屋となり、福井町と命名されたこの街の産土神として尊崇されるようになった、とのこと。その時、福井町と命名したのが、町奉行、大岡越前守であったと言いますき、なかなかのもの。有名人がいっぱい出てきます。
この見事なイチョウは、何代目の樹でしょうか。都会に美しいアクセントを与えてくれる、美しいお宮さん。
そうそう。余談ですが、頼義、義家に討たれた安部貞任。某首相は、その子孫である、として、岩手へ遊説に行った際に「私の先祖は安部貞任。私のルーツは岩手県。その岩手県に戻ってきた」などと宣いよったという逸話があるそうです。