暦景亭からの風景〔4225〕2014/11/09
2014年11月9日(日)雨のち曇り
昨日は松山から帰高して、午後、シンポジウムに出席しちょりました。高知大学に、来春から「地域協働学部」という新学部が開学するのに伴い、そのキックオフのシンポジウム。小生、パネリストとして参加させて頂きました。
地方創生か再生か知りませんが、今までの延長線上にある政策では、日本の地方の再生はない。答えは地方にあり。地域に人々が再び住み始める、そのスタートになるかも知れない、地域協働。山や海が元気であることが、日本の国土が成立する絶対条件です。その為にも、これからの新学部のあり方に期待します。山や海が元気になれば、それだけで、人口問題も解決します。絶対に。
シンポジウムの主旨とは全く関係ないですが、ビックリしたことがありました。
シンポジウムの基調報告を行ったのが、この学部設立にこじゃんと力を尽くした高知大学の辻田副学長さん。その報告の冒頭、ご自分の実家の界隈、愛媛県の松山市の、道後から車で5分という場所でも、中山間の風景があり、中山間に共通するような課題があるのだ、というお話をしながら写真を紹介されました。
ああ。
何と、昨日のにっこりでご紹介した界隈ではないか。昨日の朝、たつくった辺りの風景が、午後のシンポジウムの基調報告冒頭で紹介されたのであります。なんという偶然。
普通の人々が入っていくような場所ではありません。通りがかるような場所でもありません。人通りのこじゃんと少ない、静かな谷間。いや〜、不思議な縁を感じてしまいました。人生は不思議不思議。
さて。
今日は、夕刻まで色々と用事をしておりました。で、秦泉寺で夕刻用事が終わったので、同行しちょったJr.2号を乗せて、車を北山へ走らせました。目的地は三谷。そう。三谷観音様のある、山間の、古い古い集落、三谷。
中秦泉寺から直接行かず、少し遠回りをしてみました。一旦正蓮寺の坂を上がってゴルフ場の横から西進。ボーロク峠を過ぎ、椎野峠から、三谷へと下って行きました。
山間の道路。いや〜、カンタロウさんが湧いちゅう湧いちゅう。たくさん、道路に寝そべっております。これを踏まんように走るのは至難の技です。それっぱあ、あちこちで大量にニョロニョロしよります。今年はカンタロウさんの当たり年ながでしょうね。
三谷へ到着すると、ここ、谷干城さんが晩年に過ごした住居跡へ、Jr.2号を連れて行きました。身長だけは180cm近くになってしもうたjr.2号は、誰に似たのか、少し、若干、かなり、歴史マニア。なので、谷干城の家からの、この見事な眺望に感動しちょりました。
谷干城さん。明治維新、そして戊辰戦争で活躍し、明治陸軍の実力者として活躍。西南戦争の熊本鎮台籠城戦では、司令官として頑張り、名を馳せました。その後、日本という国のあり方に、真摯に向き合い、日本中が浮かれる日露戦争に貴族院議員として強烈に反対するなど、浮かれる世論や世相に流されることなく、日本の将来を考え、国会で論戦に臨んだ矜持の人。
今、日本に必要なのは、谷干城のような人物である、と、本当に強く思います。
この場所は、延宝三年(1675年)に、富永新助さんという文人が「暦景亭」と称して居を構えた場所。友人の大学者、谷秦山さんが、ここから眺めた三谷から太平洋までの情景を、美しい文章にして残しちゅうそうです。まだ読んだことはありませんが。
谷干城さんは、谷秦山さんの子孫。
そんな訳で、この場所の素晴らしさを知っちょったのでしょう。
最期まで、政府に、人々を幸せにするための意見を言いつづけた矜持の人。勇ましい世論や耳障りの良い意見をはく政治家に、モノを申しつづけました。
晩年、谷干城さんは、ここからのこの美しい風景を眺めながら、何を考えていたでしょうか。