おすすめ

今日のにっこりひまわり

菜園場、菜円場、サエンバ、サイエンバ〔4137〕2014/08/13

菜園場、菜円場、サエンバ、サイエンバ

2014年8月13日(水)晴れ

穏やかな朝。新聞には、大雨、台風の被害状況がたくさん掲載されちょります。特に農業被害は深刻で、友人の圃場やハウスもかなりやられました。自然相手の商売、ホントに苦労が絶えません。心よりお見舞い申し上げます。もう、しばらく雨は結構です。静かな夏の日が続くことを祈ります。

ここは菜園場。さえんば。菜園場商店街の道路脇の植え込み。
菜園場商店街は、もちろんよさこいの会場の一つで、大変な賑わいと盛り上がりを見せちょりました。以前にも書いたことあると思いますが、菜園場、小生にとってはよさこいを連想する地名。小学生の頃、青果の堀田チームでよさこいを踊り、この菜園場会場でメダルを貰うたがですね〜。些細なことですが、半世紀近い昔のそんなことを、よく覚えちゅうもんです。いや、ホントに嬉しかったがでしょう。菜園場でメダル。

この植え込みの中に石灯籠が鎮座しちゅうがが見えますでしょうか。手前に説明板が立っちょります。読んでみますれば、この石灯籠、かの横山隆一先生の鎌倉の自宅の庭に置かれちょったものやそうで、横山隆一まんが館に近い菜園場商店街に寄贈されたもの、とのこと。
横山隆一さんの鎌倉の自宅と言えば、多くの文化人が集結して飲んで騒いだ梁山泊のような場所であったことは余りにも有名。その現場にあった石灯籠が、こうやって菜園場の片隅に鎮座しちゅうことは、メッソ知られちゃあしません。

菜園場。南には農人町。
寛政二年(1625年)、今の宝永町の南北に外堤が構築され、その堤の内側に農地が開発されました。その農地を、藩主の御手先農民に耕作させた訳ですが、その農民を住まわせる長屋がつくられたのが農人町。菜園場は、その農民たちに耕作させた、藩主の菜園所があったので菜園場。寛文九年(1669年)の城下絵図に「サエンバ町」とあるので、もう、その頃には町屋になっちょったにかありません。高知の市内の町としては、かなり古い由緒をもつ菜園場商店街。とは言え、藩政期を通じて、この場所は「農人町」と書かれた絵図が多く、サエンバ町と記載されたものは少のうございます。大体はサエンバとの片仮名表記で、「菜園場」と漢字でハッキリ書かれちゅう絵図は、天保元年(1831年)絵図。もう、藩政期後期。

明治に入り、何度もご紹介した河田小龍さんの描いた市街図を見てみると、片仮名でサエンバ。しかし、その後つくられた近代的な実測市街地図を見ると、全部、「菜園場」。または「菜園場町」。
けれどもが(これは、もう故人となられた小生が高校の時のS校長先生の口癖)。

昭和10年高知興信所発行の「最新高知市街地図」には「菜円場」とあるではありませんか。園が円。その後、他の地図をずうっと見てみてもやはり菜園場か菜園場町なので、これが特殊な例なのかと言えばそうではなく、昭和34年発行の「高知市街案内図」に、また、「菜円場」とでてきました。
しかも、電停の名前も「菜円場」。いや、他の地図では、電停名は「菜園場」で、この地図だけ「菜円場」。

そう。今朝、確認してきましたが、現在の電停やバス停の表記は「菜園場」になっちょります。しかし、以前、「菜円場」という表記になっちゅう停留所があったようななかったような。いや、どっかにあったと思います。現在でも、時折「菜円場」という表記に出会い、懐かしい気持ちになったりしませんか?

結構、漢字の表記などにはオオラカであったのでありましょう。
しかし、オオラカと言えば、大正15年商工社調査部発行「高知市街圖」。そこには「サイエンバ町」と書かれちょりました。これは、ちょっとオオラカ過ぎる気もします。菜園場は「サエンバ」ですき。「サイエンバ町」と書かれちゅう場所は、電車通りの南、大鋸屋橋北詰から西側の堀川沿いの通り。そこまで菜園場であった訳ですね。

おおのややこしい。朝っぱらから、どうでも良い話を長々ダラダラと、申し訳ございません!


←前日の日記2014年08月の日記翌日の日記→

HOME今日のにっこりひまわり

CMギャラリー

今日のにっこりひまわり
毎日健康社員日記

日記検索

下記「年月別過去ログ」のクリックで月を表示・非表示します。

年月別過去ログ

年のクリックで月を表示・非表示します。月をクリックすると記事一覧を表示します。

2019年

2018年

2017年

2016年

2015年

2014年

2013年

2012年

2011年

2010年

2009年

2008年

2007年

2006年

2005年

2004年

2003年

フッターアクセスメニュー