午前4時の東唐人町〔4115〕2014/07/22
2014年7月22日(火)晴れ
梅雨も明け、稲刈りも始まった高知県地方。夏本番。窓の外からは待望のクマゼミ大合唱。先週まではニイニイゼミがジーーーーっと鳴きゆうだけでしたが、あっという間にクマゼミの天下。朝っぱらからワシャワシャワシャワシャワシャワシャワシャワシャ。
ここは今朝、4時過ぎの鏡川。雑喉場橋北詰少し西から西に方角、つまり潮江橋の方角を撮影したもの。湿度が高めで風景がちょっとだけ霞んで見える夏の朝。潮江橋の灯りが川面に映えて美しゅうございます。
この右手の川岸は東唐人町。
唐人町は、こっから西へつながる鏡川北岸堤防上。秀吉朝鮮出兵の際に長宗我部元親が朝鮮から連行してきた人々の末裔が、山内の殿様によって豆腐製造販売の特権を与えられ、住んだ街。昭和初期まで豆腐屋さんが並んじょった、という話は何度書いたことやら。
ところが。
ここ東唐人町は、同じ唐人町でも、豆腐製造現場であったのかどうなのかは不明。寛政四年(1792年)の城下町の住宅図を見ても、土手上の住宅や店舗については記載がありません。あるのは、土手の北側の弘岡町。そこに並ぶのは、圧倒的な魚屋さん群。「魚賈銀次」「魚賈喜作」「魚賈銀六」「魚賈武右衛門」「魚賈徳助」などなどなどなど。夥しい「魚賈」が居並ぶ風景。
興味深いのは、「魚賈」は弘岡町の通りの南側ばかり。北側にはほとんど無い。何故か。
魚屋さんの裏手が鏡川の土手であることを考えると、魚屋は、土手を越えたところが川であった方が何かとのうがエイ、ということやったのでありましょう。たぶん。
ここは雑喉場というくらいで、この東側に魚の水揚げ場があった訳で、魚商売をするには最適の場所でありました。と、いうことは、鏡川のこの界隈に魚の残渣を廃棄しよったことも考えられますが、どうなんでしょうか。そうとすれば、今考えるほど、鏡川河口部はキレイではなかったかも知れない。その辺は、よくわかりません。
さて。対岸は。
鏡川の対岸は役知町、土居町。
特に土居町は、今の筆山に森氏が居城を置いた戦国期、森氏の土居、つまり本拠とした町が形成されちょったので、土居町。そんな古い城下町の痕跡。
土居町の南側は潮江。ここはもう、広大な湿地帯で農地。新田(しんた)という地名からもわかるように、藩政期、広大な農地が開発され、高知の城下の穀倉地帯へとなっていった場所。もちろん中世以前は潮田で、なかなか農地には適してなかった土地。
鏡川に流れ込む支流、神田川に堰をつくり、そこから川水を用水として引っ張ってくるようになって、潮江は良田に生まれ変わった、という話は以前も書きましたね〜。
ともあれ弘岡町。山内一豊が土佐に入国してきて、大高坂山を本拠にすると決めて築城を開始し、城下町を建設するに際して最初につくられた町「古町」のひとつ。昨日走った弘岡、現在の春野町弘岡にあった吉良城の城下町を、そっくりそのまま移設してきて町にしたので弘岡町。
ああ、昨日の炎天下RUNの暑さを思い出してしまいますな。
高知は夏、本番。