都市計画と土木工学の凄さ〔3986〕2014/03/15
2014年3月15日(土)晴れ!
素晴らしいお天気。昨夜は街に出ちょりましたが、結構冷えました。そして今朝。良いお天気ですが、風は少し冷たい。そんな中、お花見に出かけます。お花見。
毎年、土佐山田の雪ヶ峰牧場さんで開催する、恒例の、てんくろうの会のお花見。てんくろうの会は、高知県宇宙利用推進研究会の愛称で、漢字で書くと天喰郎の会。小生が考案した愛称なのであります。高知の資源を利用し、宇宙を活用した何かができないか、ということを大真面目に研究する集まりで、その研究会の成果として、土佐酒の酵母、そして弊社の乳酸菌を宇宙に打ち上げたのは、皆様ご承知の通り。
その、てんくろうの会、毎年、この時期に、雪ヶ峰牧場さんでお花見をやるのであります。普段は食べることのできないような、すごいお肉を食べながら。そんなに高いお肉ではありません。ラムイチ という部位のブロック。それを、アルミホイルで包んで長時間蒸し焼きにします。で、それを、鉄板の上で焼き目をつけながら粗塩だけで食べる。お肉の旨味が凝縮された、これぞ「お肉」という逸品でごさいます。一度、そのお肉でお花見をやったところ大好評で、毎年やることになってしまいました。
高知市内からの参加者は、ここからマイクロバスに乗っていきます。元追手前小学校前。昨年までは追手前小学校前でした。廃校になって、間もなく1年になろうとしております。
その跡地は、今、更地になり、新図書館建設に向けての準備が行われております。もう、埋蔵文化財の発掘調査は終了しました。
明治維新以来、大きな構築物が建ったことのない旧追手前小学校運動場部分は、その発掘調査結果が期待されちょりました。新聞等で話題になったのは、藩政期の武家屋敷の遺構。特に、庭の池などがそのままの姿で現れたりしたのが注目されました。
まあ、その程度のものが出てくるのは当たり前。出て来ん方が、おかしいくらい。
興味深かったのは、藩政期初期の上水道の遺構。今から400年前の都市計画は、今想像するよりも、ずっと進んじょったのでありましょう。
昨日、山田堰の土木工学的検証をご紹介しました。当時としては、たぶん、世界水準にあったと思われる土木技術。戦乱の世に、必要に迫られてレベルアップした側面もあったでしょう。実に考えられた技術が、散見されます。
ここ、高知の城下の城下町づくりにも、ビックリするような土木技術が駆使されちゅうがですね。徳川家康は、戦国期から藩政期初期にかけての、最大最高の土木プランナーであった、という話もありますが、山内氏も、かなりの土木技術水準を持ち、治水のプロフェッショナルであったと思われます。
ここ、高知の城下は、元々浦戸湾の底であったという湿地帯。中世に、徐々に干拓され、造成され、土地ができあがってきた場所。
今回の発掘で、中世の遺構も発見されました。それを検証していくと、この写真左手の追手前小学校跡地の真ん中くらいまで、高知城の方から舌状に洲がせり出して来ちょったことがわかりました。跡地の東部と西部で、土地の高さが全然違うことから類推されます。そこを、平に均し、造成していって、武家の居住する郭中が形成された訳です。
大高坂山から、東に延びる洲。鏡川と江ノ口川に挟まれた、洲。そこに武家屋敷の街をつくる。江戸の街がそうであったように、一番高い部分、土地で言えば尾根筋をメインストリートにする。追手門から東へ、洲の一番高い部分、つまり尾根筋をまっすぐメインストリートとする。そして、そのストリートに面して家老級の上級武家屋敷をつくる。南北の、川に向かって下って行く土地に、家老級よりは少し身分の低い武家が居住する。
といった都市計画が、小生には妄想できますのであります。
それには大量の土砂が要ったでしょう。どうやって造成用の土砂を確保したのか。
高知城の山をお城にするのに、大量の残土が出たでしょうか。藩政期の城下町絵図を見たらしゅっとわかりますが、城下町には縦横に堀があります。まさに水郷と言えるような、高知の城下。
湿地帯であった場所に水路を掘り、水が安定した場所を流れるようにする。その水路を、物流の動脈として産業を活性化させる。そういった目的が見えてきます。そして、その、堀を掘った残土を土地の造成に利用する。そういったダイナミックにして合理的な都市計画を、今から400年前の人々がプランニングしちょった訳です。そのダイナミックさは、現代の我々よりもずっとすごかったかも知れない。400年前の想像力、プランニング能力、そして土木技術の凄さ。
そんなことを思いながら、お花見に出かけます。桜が咲いてなかろうが冷やかろうがどうであろうが、お花見をしてきます。