潮江天満宮、天保年間のできごと〔3818〕2013/09/28
2013年9月28日(土)曇り
久々の雨。このところ、ずうっと秋晴れの良いお天気でしたが、昨夜から久々のお湿り。ちょっとだけですが。今日も朝から曇っちょりまして、時折霧のような雨が落ちてこようとしたりせんかったり。
今日はお昼前から研修会なので、朝のうち、久し振りに潮江天満宮さんにお参りしてきました。本社が与力町にあった頃は毎朝のようにやって来た潮江天満宮。今も、変わらぬ厳粛さと美しさで迎えてくれます。
潮江天満宮は、高知で最も初詣客の多いお宮さん。普段、訪れる参拝客の数も、一番多いがでしょうか。境内でひと際目を引くのは楼門。藩政期、嘉永6年(1853年)に建てられ、明治35年に修築。藩政期末期に活躍した島村三四郎さんの彫刻が見事な楼門。写真のように、美しい鎮守の杜に囲まれ、幽玄に聳える楼門。
境内に刻まれた年号で、古いのを見てみましょう。広い境内、たくさんの玉垣や燈籠、狛犬、鳥居がございます。その中で、拝殿から帰路の石段を下るところの玉垣には「天保五年甲午秋九月吉日」と刻まれちょります。1834年。
拝殿へ向かう往路の参道、石段を登る手前、左右に立つ丸い燈籠が、写真の右下に写っちょります。刻まれる年号は「天保乙未 季秋」。これは天保6年で、1835年。秋の終わり頃ということでしょうか。天保6年の秋の終わりと言えば、坂本龍馬くん。天保6年11月15日、ここ潮江天満宮から歩いてしゅっとの場所で龍馬くんが生まれた、丁度その頃、その燈籠は立てられました。
天神橋から入ってくる参道の北側に並ぶ玉垣で、一番古い年号は天保9年。1838年。大塩平八郎の乱が天保8年ですき、その翌年。
天保の大飢饉が発生するのは、この燈籠が立てられた9年後、天保15年。以前にも書いたことがありますが、高知でよく使う「テンポな」という方言、これは、土佐弁ではなく、西日本で広くつかわれる言葉で、天保の大飢饉に由来する「大変な」といった意味の方言。土佐弁で現在使われゆう「テンポな」は、ちと違う意味である気がします。
この燈籠が立てられた天保6年には、天保通宝なる貨幣が鋳造されました。いわゆる天保銭ですな。楕円形で、中心の穴が四角。
日本陸軍が、陸軍大学校を卒業したエリート軍人のことを「天保銭組」と呼んだがは、陸大卒を示す徽章が天保通宝に似いちょったき、という話はご承知の通り。
それにしても、潮江天満宮。結構、天保年間の痕跡が多い気がします。天保は15年まであったので、確率的に多いのはわかりますが、それにしても。
その頃、このお宮さんの環境として、そういったご寄進がされやすい状況やったがでしょうか。今となっては妄想するしかありません。
その次に多そうなのが嘉永。楼門も嘉永ですし、参道脇の立派な燈籠にも嘉永6年の年号。
安政の南海地震は嘉永7年。その燈籠や楼門は、安政南海地震でも倒壊せず、津波の浸水にも耐えて、今に残るのでしょうか。
神社の境内には、その土地の歴史が深く濃く、刻まれております。