江ノ口川、中の橋を渡ると思い出す〔3808〕2013/09/18
2013年9月18日(水)快晴!
見事な秋晴れ。寒いくらいの朝。が、日中は、まだまだ暑い高知市内。良いお天気が続きます。
ここは今朝の江ノ口川。朝の汽車で神戸へ行くがに、与力町の弊社デポに車を停め、自転車で高知駅へ向かいゆう途中。中の端の上から西の方向を撮影してみました。ですきに、左手の建物の向こうには、高知城が隠れちゅう訳ですね。
この江ノ口川の北岸、川沿いを大川筋と呼びます。江ノ口川は大川でした。ここに城下町が建設された頃は、鏡川よりも江ノ口川の方が大きかった、とも言われます。ですきに大川。
鏡川には、山内氏の防衛政策で、ほとんど橋が架けられんかったがですが、こちらの江ノ口川には何本かの橋が。色んな橋が架けられ、外され、名前が変わり、という変遷の歴史。
ここが中の橋と言うばあですき、当然、上の橋も下の橋もありました。城下町と、北部の村々とを結ぶ橋は、いっぱいあったのであります。
その江ノ口川沿い、現在のイオン(旧サティ)のところに高知パルプの工場ができたがは戦後間もなくのこと。で、県の戦後復興、産業振興の政策として、多少の廃液には目をつぶることにしました。しかし、その廃液の凄まじさは、多少のことではなかった。
小生が小学生やった頃。ここは、息をするのも大変な、強烈な異臭がたちこめる場所でした。真っ黒い川の川面には、ポコ、ポコ、とメタンガスが泡をたて、死の川となっちょりました。その、川の南岸のところに小学校の同級生が住みよりましたが、ある台風で増水、江ノ口川が溢れて浸水した後は、もう、とんでもないことになっちょった記憶があります。
1971年、このにっこりでも何度かご紹介した、素晴らしい技術者にして経営者、思想家、詩人であった山崎圭次さんが中心となって、話し合いに応じようとしない高知パルプの工場の排水溝に生コンを流し込み、操業をストップさせました。いわゆる生コン事件。もちろん犯罪ですが、刑を覚悟した確信犯。そうでもしなければ、行政も動かなかった。その後、圧倒的な世論の後押しがあり、翌年高知パルプは撤退。
高知パルプが操業したのはたったの20年。その期間の江ノ口川、そして流れ込む浦戸湾は表現できないほど汚染され、その経済的損失、そして大自然の損失は、高知パルプによる高知の利益の何千倍何万倍とも言われます。浅はかなことをしてしまいました。そんなことを、経済発展のために正しいことだ、と、当時の行政や財界は後押しした訳です。
こんな事例、今もあるような気がしませんか?
たった20年の負の遺産は、あれから40年経過した今も、まだ拭い去られていません。かなりキレイになったとは言え、まだ汚れている江ノ口川。底にはヘドロが堆積して、無くなる事はありません。
浦戸湾も、一見キレイに見えますが、底にはヘドロ。干潮時に丸山台へ歩いて行きよったら、真っ黒いヘドロに足を取られます。元の浦戸湾に戻るには、何百年もかかるかも知れませんね。
この中の橋を渡ると、ここの強烈な臭いと真っ黒な川面を思い出してしまいます。40年経過した今でも。