要法寺町に紫陽花が咲きました〔3687〕2013/05/20
2013年5月20日(月)晴れ!
昨日は、まあまあ降りました。高知にとっては、ほど良いお湿り。濡れた街がお日様に照らされて美しい朝。
ここは堺町。現在の住所表示では、高知市堺町。中島町の通りを東へきたところ。今朝、4時過ぎの堺町。もう、紫陽花が咲いちょりました。紫陽花。あじさい。そんな季節になりました。
ここは、現在の住所は堺町ですが、藩政期には要法寺町と呼ばれよったそうです。今の電車通り界隈が本町、この通りを挟んで要法寺町、その南が掛川町。今は全部堺町。
この要法寺町界隈に、戦国時代、国沢氏の居城があったとされます。こないだうちからお城の立地と地形の関係をちょっと書いてきましたが、この国沢の城も、たぶん小山の上にあったと思われます。鏡川(潮江川)によって土砂が堆積されてできた小山。山の周囲は、国沢というくらいですき、たぶん湿地帯に近い低い土地。そこにぽっかりとお城が浮かんじょった風景が妄想できます。
で、山内一豊さんが土佐へ入国して城下町建設を始めた際、その小山の部分も平坦にされたでしょうか。その土砂を、城下町の土地造成に使うたかも知れません。
その平になった土地に、山内氏の菩提寺、要法寺町を持ってきたので、要法寺町。ところが、貞享4年(1687年)、その要法寺から出火、界隈全部が焼けてしもうたそうです。
その後、要法寺さんは、現在鎮座まします潮江、筆山の北麓に再建されました。焼けた跡地は町場となり、藩政期を通じて、賑やかな場所となっていったのでありました。しかし町の名には要法寺が残り、今でも、堺町ですが、要法寺町という呼び名も残ります。
その向こうの角を北へ行った、一筋目の交差点に、今もラーメン屋さんがあります。経営が変わりましたので、今は違いますが、あそこに最初にできたラーメン屋さんは豚太郎でした。ひまわり太郎、小学校高学年の頃。豚太郎要法寺店という名前やったと思います。
あの頃、周辺にお寺さんもないのに、なんで要法寺店なのか不思議でしたが、大人になって理解できたという訳です。
豚太郎は、当時、高知では珍しい、色んな種類のラーメンがある店で、珍しゅうて、ビッシリ行きました。塩ラーメンとか味噌ラーメンを初めて食べたがも、豚太郎要法寺店やったと記憶しちょります。おいしかったです。
この要法寺町の南は掛川町。城下町建設の際、山内氏が、前任地の遠州掛川から色んな職人さんを連れて来て住まわせた町。ですきに掛川町。
要法寺町の東側は八百屋町。八百屋さんなど、商人が住んだ町。
要法寺町の北側は、言わずと知れた堺町。もちろん、大阪の堺から、呉服商がやってきてお店を開いたので堺町。
この要法寺町は、そんな町に囲まれちゅうので、職人さんやら商人さんやらが混在して住んだ、賑やかにしてややこしい町やったにかありません。
もちろん、西側にはお堀と土塁があり、その西側は郭中。上級武士が住むエリアですき、この界隈とか一線を画しちょったことは言うまでもありません。
ともあれ、紫陽花。季節は、もう、初夏。