今はもうない、刎ね橋〔3646〕2013/04/09
2013年4月9日(火)薄曇り
あと8日で、今日のにっこりひまわり10周年。10年前と変わってしもうた風景を、今日もご紹介しましょう。
ここは刎ね橋。の、あった場所。
10年前、2003年5月1日のにっこりで、同じアングルの写真をご紹介しちょります。江ノ口川から横堀に入る分岐の所。この、藩政期に、江ノ口川と鏡川をつなぐように南北に掘られた川、横堀は、色んな反対運動も実らず、こっから新堀小学校のところまで、暗渠になってしまいました。
10年前の写真を見てみると、横堀がしっかりと存在し、ここに橋が。ここは、刎ね橋。昔、この横堀の下には上水道の管が通され、橋脚が立てれんかったそうで、川岸から刎ね橋を差し渡しちょったので、10年前でも橋の名前は刎ね橋。その由緒ある名前の橋も、今はもうありません。暗渠になったので、10年前の写真にあった大きな水門も、今はもうありません。
この道路の向こう側に見える薄茶色の建物は、はりまや橋小学校。あそこにあった新堀小学校と、市内中心部にあった追手前小学校が統合し、昨日、はりまや橋小学校としてスタートしました。時代は変わっていきます。
そのはりまや橋小学校の東側には、今も、横堀が残ります。こないだ、高知市の土木課かどっかが、地域住民に、この道路工事をすすめることについてのアンケートをしちょりました。おう。まだ工事は止まってなかったがか。
しかしあれですね、一度計画が立てられてしもうた公共工事は、周囲の状況や環境がどう変化しようと、粛々と進められていくようです。これは文化、習慣、風習、構造なのか。まさしく不思議な構造。
それはともかく、ここは風景が変わってしまいました。左端や右端の建物は、10年前と同じように立ちます。川はなくなり、新堀小学校ははりまや橋小学校になり。
9年前の2004年6月5日にご紹介した桜井橋は、今は、あそこが橋とは、通りよって気付かんような風景になりました。あの、「櫻井跡」の石は、やはりあそこに埋められちょりますが。
今、「今日は何の日」を見よりましたら、123年前、明治23年の今日、4月9日、一昨日ご紹介した琵琶湖疎水が開通したがやそうです。
あの疎水を建設する際、地元では、かなりの反対運動もあったようです。費用の問題や、なにがしかの悪影響の心配から。新しいことをやるのは、なかなか大変。
そうやってできた疎水は、今でも京都の皆さんの役に立ち、使われんなったインクラインも、今、大勢の観光客を集めております。インクラインが廃止になったのは昭和23年。道路拡張などに利用されず、そのまま残されたおかげで、今では観光の目玉のひとつとして役立つインクライン跡地。
変わっていくことの大切さ、残していくことの大切さ。