琵琶湖疎水と田邊朔郎くん〔3644〕2013/04/07
2013年4月7日(日)京都は曇ったり降ったりどすえ
今日は京都。今朝、早朝に車で高知を出てやって来ました。京都は、桜が散り始め。風が吹き、ちくと冷たい雨が降るお天気。にもかかわらず、すごいヒトですねえ、まっこと。春の京都、秋の京都の観光客の多さは、もう、すごい。
午前中に用件を済ませ、夕方までは時間があったので、ちくと散策。
こないだ、2012年12月2日に京都へ来た際、南禅寺境内にある、琵琶湖疎水の素晴らしい産業遺産、水路閣をご紹介しました。あのときはメッソ時間が無かったので、ゆっくりと疎水関連施設を、ようたつくりませんでした。今日は、Jr.2号と一緒に、ゆっくりと堪能してきました。このすごい産業遺産を。
まずは、南禅寺船溜りの前にある、琵琶湖疎水記念館。ここで、このすごい事業の概略を復習。以前にも書きましたが、明治時代になって都が京から東京に遷され、なんとなく衰退していく京都をなんとかせんといかん、ということで、京都府知事の北垣国道さんが建設を決意した、琵琶湖からの疎水。昔からの京の悲願であったとは言え、非常に難しい工事であることはわかっちょりました。
で、その際に土木技師として採用したのが、東京の工部大学校を卒業したばっかしの田邊朔郎くん。記念館には、彼の卒論も展示されちょりましたが、とにかく優秀にして、何をおいてもやり遂げるという強い信念のヒト。そのリーダーシップもあって、明治23年に、第1疎水が完成。
で、長いトンネルを抜いて、京都側にでたのがここ。蹴上。蹴上の船溜り。散った桜の花びらが水面に美しい、蹴上の船溜り。向こうに、トンネルの出口が見えます。美しい風景。
もちろん、農業、飲料、工業用水としての目的をもった琵琶湖疎水でしたが、その水路を利用して、物資も輸送することになりました。それによって、琵琶湖周辺と京都が水運でつながることになった訳です。
しかし、ここ蹴上と、京都の街に走る水路とでは、かなりに標高差がある。そこで、インクラインという、線路を利用した、輸送方式が考えられたのであります。長い斜面を、鉄道を利用して、船をそのまま運ぶインクライン。乗せ替えをせいでも、船ゴシ運べるので、飛躍的に輸送効率が上がります。
さて。その動力をどうするか。
高知の馬路村にもインクラインがありますが、あれは、水の重さを利用した、水力のインクライン。ここ、琵琶湖疎水のインクラインも、最初はそうするつもりやったとか。けんど、途中で、電力で動かすことに設計変更。もう、ここがすごい。それで、この疎水の高低差を利用した水力発電をやることになった訳です。日本で最初の、事業用発電。
そのお陰で、電灯などへの電気の供給も行われるようになり、明治28年には、日本で最初の一般営業用電車が走る原動力ともなったがはご承知の通り。もう、発想からなにから、ぜんぶ、すごいですね。
この近くに、田邊朔郎さん、いや、田邊朔郎くんと呼んだ方が良いような、若い姿の銅像が立ちます。明治23年に、琵琶湖疎水に最初の通水が行われたとき、彼は28才でした。人間、強い信念と努力と熱意があれば、なんでもできてしまう、ということです。
記念館には、彼が、イギリス土木工学会から贈られたテルフォード・メダルが展示されちょります。外国人技術者を使わず、日本人だけで、琵琶湖疎水のようなすごい施設ができたことにイギリス人が驚き、その若き技師に敬意を表して与えられました。最高の技師、論文にのみ与えられるこの賞を受章した日本人は、彼だけやそうです。