城八幡、阿波、白地城、長宗我部〔3563〕2013/01/16
2013年1月16日(水)晴れ!
今朝は、徳島へ行きよります。早めに出勤してひと仕事済ませ、7時に会社を出発。時間があるので、高速道路ではなく、下道、国道32号線を走りました。国道32号線で阿波池田へ、そして吉野川沿いを下っていくルート。その全ルートの中で、一番標高が高いのは根曳峠(ねびきとうげ)、395m。南国市の領石から一気に上った、その峠が最高標高で分水嶺。あとはずうっとずうっと下っていく訳ですね。しかし、大杉から豊永、そして県境、大歩危と進むにつれ、山に入っていく感が高まって行きます。標高は下りゆうのに、ちょっと不思議な感覚。しかも、車に表示される外気温もどんどんと低下、周囲に雪も増えてきます。標高とは関係なく、県境から大歩危界隈が一番山奥、という風情です。
さて。ここは阿波池田。池田の街に入る手前、吉野川の北岸の、小山の上。ここに、温泉保養施設があります。かつては「かんぽの宿」であったという保養施設。
こないだうちから、高知の城跡をいくつかご紹介してきました。南北朝期、中世、戦国の、各所の城跡。すべてとは申しませんが、城跡、特にその詰があった場所には、城八幡が鎮座ましましちゅうケースが多いです。それは、こないだの音竹城や、春野の吉良城などのように小さな祠の場合もありますし、こないだ行った新城城や大津天竺城の城跡に鎮座するような、立派な社殿をもった城八幡もございます。
岡豊城趾の、詰の段にも、そんなには大きゅうはないですが、城八幡が鎮座しちゅうがはご存じでしょうか。
日本では、お城があって、それが廃城になってしもうたりした場合、その後をキチンと祀る風習があります。戦の神、八幡様の信仰と結びつき、それは、城八幡として祀られます。お城に対する想い、そこを利用していた人々への想いがこめられちゅうがでしょうか。
この、温泉保養施設の場所には、かつて、お城がありました。白地(はくち)城。元々、この地の豪族大西氏の居城。ひっそりと案内板が建てられちゅうので、その一部を書き抜いてみましょう。
「大西氏は外に出ては大剛、内にあっては民治に意を用いた領主であった。天正三年(1575年)、長宗我部元親は阿波侵略を開始し、南方の海部氏が最初に領土を奪われ、天正五年(1577年)には大西氏も防戦かいなくその所領を侵され、城主大西覚養は身をもって讃岐麻城に難をさけた。元親は白地城に入り、これを改修して根拠地とし、四国統一の志をなしとげた。その後元親は天正十三年(1585年)豊臣秀吉の四国遠征軍との戦に敗れ土佐に退いた。以来大西城は廃城となったが、最近にいたるまで旧城の最高地の削平地から堀、武者ばしり等が残在し、往時をしのぶことができた。」
以前にも書いたことがありますが、阿波では、我が長宗我部元親さんは侵略者。その、四国制覇戦の本拠地として、土佐の歴史では、重要な地点にされちゅう白地城も、阿波人にとっては忘れてしまいたいものかも知れません。この隣にデイサービスセンターがあり、その敷地にだあまって不法進入すると、「白地城趾」と刻まれた石と大西神社さんが鎮座。大西神社はあっても、城八幡はありません。長宗我部の痕跡は、キレイになくなってしもうちょります。上の転載文にある遺跡も、ここにかんぽの宿をつくる際、無造作に取り壊されてしもうたがにかありません。
土佐の英雄も、阿波や讃岐、伊予から見ると侵略者やったりしますき、歴史は面白くも難しい、ということです。