中世土佐、ワクワクする話〔3456〕2012/10/01
2012年10月1日(月)晴れ!
昨日、台風が過ぎてからはキレイな青空になりました。中秋の名月やったようで、各所でキレイなお月様が見れたようです。facebookでも、皆さん、それぞれ中秋の名月を撮影して紹介されちょりました。
写真は今朝、4時過ぎの名月。ちょっと雲が出てきましたが、それがまた、なかなか素敵な雰囲気を醸し出しちょります。潮江橋と雑喉場橋の間の北岸から撮影。鏡川の川面が街の灯と空の雲を映しだして美しゅうございます。
この右手から潮江橋、そして天神橋にかけて、幕末、ものすごいことになっちょった、という話を、一昨日のにっこりで書きました。「のえくり」と、河原に突如出現したとてつもない賑わいの話。実は、かなりの力作で、最近のにっこりの中でもかなりの内容やったと自己満足に浸っちょったのでありますが、皆さんはメッソご興味ないみたいで、ちくとションボリしちょります。自分のfacebookにリンクを貼っちょったがですが、ほぼ反応ナシ。う〜んションボリ。しかしそんなことにはメゲず、マニアなマニアな世界を突き進んでいこう!と心に誓ったのでありました。
そこで今朝も、誰も興味なさげな話題。中世から戦国期の土佐中原。
南北朝期、土佐は南朝方が優勢やったがですが、徐々に北朝勢力に押されて壊滅した、というのはご承知の通り。ご承知ぢゃあのうてもどんどん行きます。で、南朝方の総大将格が、現在の高知城がある大高坂山に本拠をおいた大高坂氏。英雄、大高坂松王丸さんが討ち取られ、南朝方が壊滅した後も、どうやら大高坂氏は戦国期まで命脈を保っちょったにかありません。
戦国期になると、国沢氏が勢力を増します。その向こう、潮江橋の向こうの右手に、当時は小高い丘があり、そこを本拠とした国沢氏。鏡川蛇行部分にできた砂州の小山やったがでしょうか。そして、左手、建物群の向こうに見える筆山、潮江山に、四国山地の山間から出てきて本拠を置いたがが森氏。この鏡川を遡上した朝倉を本拠とし、戦国後期最大の勢力を張ったがが本山氏。まさに群雄割拠で、提携したり離反したり、入り乱れちょった訳です。
森氏が本山氏に攻め落とされ、潮江山は本山氏配下の片山半兵衛が占領。しかし、1560年、長宗我部氏が浦戸湾を渡って長浜の本山氏に攻撃をしかけ、戸の本合戦に勝利した際、若き武将元親くんが、潮江山を一気に占領してしまいました。部下は深追いを心配しましたが、山の上を飛ぶ鳥が緊急事態を告げておらず、どうやら片山半兵衛、山から避難しちゅう、と見た元親くんの好判断やった、と言われちょります。そして長宗我部氏は国沢氏も支配下に組み込み、徐々に本山氏を圧迫、最終的に覇者になったがもご承知の通り。
この風景のなかで、そんなドラマが繰り広げられた訳です。
興味深いのは、中世以前は海であり、湿地帯になり、人の住める場所になっていった、現在の高知市の中心部。今年3月、お城の南東の発掘調査で、大高坂時代かも知れん中世の遺構が出てきた、という衝撃的な発表がありました。灌漑、開発が行われ、川に挟まれた湿地帯に街が形成されていく過程が、わかってくるかも知れない。
今、期待されるがが、来春取り壊されて発掘調査が行われる追手前小学校。その運動場部分は、明治以降、大きな建物が建てられたことがなく、深く掘り下げると古い遺構が出現するかも知れんとされます。江戸時代、誰が住みよったかはわかっちょりますし、その遺物も楽しみではありますが、何より中世。中世、ここが人の住める場所に開発されていく過程、どんな都市計画やったのかがわかったら、これはすごい。これにはワクワクします。誰がなんと言おうとワクワクします。