海抜マイナス0.2mの宝永町と大津波〔3250〕2012/03/09
2012年3月9日(金)雨
ここは、以前にもご紹介したことのある宝永町。最近海抜表示が行われるようになりました。ここはご覧のように-0.2m。海面よりも低い土地。地震では地盤沈下しますので、あと2mくらい低うなるでしょうか。
高知の城下町が建設された際、鏡川と江ノ口川を結ぶように、この近くに土塁がつくられました。しかし宝永4年(1707年)の宝永地震津波で破壊され、城下は浸水しました。その後、同じ場所にもっと堅固な堤がつくられ、宝永堤と呼ばれるようになった、という話はナンベンしたでしょうか。
元々、この界隈は湿地帯に近い低い場所。宝永地震津波の翌年、「土佐物語」という、長宗我部元親さんなどの活躍を書いた軍記が世に出ました。それには、岡豊から浦戸に元親さんが本拠を移す際、その城下について、「東西南北は皆大河なれば、四方に堤を築き(略)而も北に洞島の渕、鱸岩、東に太布ヶ渕、龍ヶ渕、知寄などいふ底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶ所にあらず・・・・」と書かれちゅうがです。「いふ底もなき渕」。その知寄は、このもうちょっと向こう。そんな場所。
こっから北へ行って江ノ口川の手前をちょっと西へ行くと、その川沿いの町は鉄砲町。山内氏が城下町を建設した当初、長宗我部の残党などへの警護のため、足軽鉄砲組を住まわせた場所。その後、鉄砲組はこの南の農人町へ移住し、その跡地に寺院がいくつも建てられたそうです。が、宝永4年の大津波で被災、寺院は、もっと安全な小高坂村とかへ移転、そして下級武士や職人さんたちが住む町になったということ。大地震は、町の仕組みを大きく変えてしまいます。
さて、もうすぐ一年ということで、安政元年(1854年)11月5日の安政南海地震津波から後の宇佐の状況を克明に伝える日記、真覚寺日記から、1年後の記事を読み下してみます。
安政2年11月5日
晴れ 朝9時頃、小揺れ。去年の今日は大地震ぢゃったき、今年は、宇佐浦で、浦祭りということで相撲大会をしょう、ということになって、中町の浜に土俵をしつらえて10km四方くらいに住む相撲取りへ案内した。お昼過ぎから見物の男女が集まってきた。夕方、中の小揺れ。
今日はこじゃんとヌクうて風もない。晩方、相撲場はこじゃんと賑やかになった。
(今日は去年の大地震の日ということでその日を思い出し、みんなあ、なんとなく人心が落ち着かんようぢゃったけんど、まあ、なんちゃあなかって安心しよった。)
大津波から一年。復興しつつある町で、景気づけに相撲大会が行われたようです。相撲は、当時の娯楽の王様。それを楽しみつつ、一年前を思い出して不安な気持ちも募る、そんな複雑な住民の心情が伝わってきます。
一年経過しても、まだ毎日余震はつづきよります。
東北でも、毎日余震が続き、復興に向かいつつも不安な毎日を過ごされゆうと思います。まだ一年。まだまだこれから。