手水鉢、年号研究〔3129〕2011/11/09
2011年11月9日(水)曇っちょります
今日は高知。高知市内から南国の工場向いて自転車を漕ぎよりましたら、今朝はかなりの向かい風。普段よりもだいぶ体力を消費しましたので、一昨日の夜摂取した過剰カロリーは、ちょっとは中和されたでしょうか。
ここは今朝の上岡八幡宮。
い つものこの八幡様境内には、色んな年号の狛犬やら灯籠やら手水やらがございます。以前にもご紹介しましたが、一番古いと確認できる年号は、拝殿前の石段に 刻まれた文化九年というもの。1812年。1812年と言えば、チャイコフスキーの序曲1812年が有名で、あの荘厳な曲は、ナポレオンがロシアに攻め込 んで来たがを撃退した年を記念して作曲されたもの。兵站を軽視し、現地調達主義で攻め込んだナポレオン軍は、広大な国土を利用して消耗戦に引きずり込んだ 「焦土作戦」と「冬将軍」によって甚大な被害を被って敗退しました。
フランス軍をお手本につくられた日本陸軍が、広大な中国や太平洋に兵站を軽視して現地調達主義で攻め込み、敗退したがは、宿命やったがかも知れませんね。
さ て、それはさておきこお手水鉢。拝殿前の近くに鎮座ましましちゅう手水鉢。これに刻まれた年号につきましては、以前、考察しました。普通に考えると嘉永四 年(1851年)。一番古い石段が1812年ですき、もし、宝永四年(1707年)としたら、それから百年以上も古いものになる訳ですき、
で、植 物が鬱蒼と生えて、読めんなっちょった側面の文字が見えるようになっちゅうので読んでみると「亥八月吉日」とあるではありませんか。亥の年であることが判 明します。嘉永四年が辛亥の年である、ということは、参道入り口の鳥居に刻まれた年号からも明らかやったので、やはりこれは嘉永やったがか、と思いまし た。ところが、考えてみますと、1851から1707を引いたら144。そう。12で割り切れます。と、いうことは、宝永四年も亥の年。やはり謎は謎のま ま、残されてしもうたのでありました。
もし、宝永四年八月とすれば、宝永地震津波はその二ヶ月後。その威力を目の当たりにしてきた手水鉢かも知れんがですが。