あれから初めて、被災地に来ました〔3010〕2011/07/13
2011年7月13日(水)晴れ
昨日の夕方、仙台へやって来ました。あれから初めての被災地。夕方でしたが、多賀城にお住まいで、震災の日に仙台港近くで被災し、津波に足を洗われながら建物の外階段を駆け上がって助かった方に、沿岸部をご案内して頂きました。
仙台の街中から車で20分。そこには、密集していた住宅街が1軒残らず流された惨状が広がっちょりました。瓦礫はかなり片付けられたということですが、その光景には言葉もありません。
高 台が近くにない、そんな沿岸がずうっと福島県の方につながっておりました。多賀城の方では、ちょっと高うなっちょって何事もなかったかのような新興住宅団 地と、すべてが流されてしもうた宅地が隣接し、あまりにもはっきりした明暗に、驚きます。仲良かったコミュニティが壊れていった、という話を、今回、随分 と聞きました。
今日の午前中、予期せず時間が空いたので、レンタカーを借りてこの場所まで行きました。ここは福島県南相馬市。そう。原発問題で今も揺れ続ける南相馬市。
こ こに、昔から懇意にさせて頂きゆう乳業メーカー、松永牛乳さんがあるがです。工場は、奇跡的に津波を免れちょりました。ほんのちょっと、100mくらい離 れた所は、津波直撃で家も何も完全にやられておりましたので、工場が助かったのは不幸中の幸い、奇跡的でした。なんとか、操業を再開しておられます。
こないだうちから、放射能に汚染された生乳が出荷されて西日本へ、などという話が出ております。ホントとすれば、我々には理解できない、不可思議な流通。そんな話を、松永牛乳の松永社長さんとしてきました。
今、松永さんの所で使用している生乳は、東北生乳販連さんが東北全域がら集めた生乳。もちろん検査済み。近所の酪農さんが、検査してない生乳をそのまま持ち込んでおられる訳ではないのですが、理解を頂くがが難しいようですね。
そ して、この界隈の生乳が、未検査もしくは汚染されたという状態で、西日本などの他のエリアに流れる、ということが果たして可能なのか。我々には理解できな い、というようなことを、話し合ってきました。本当に、理解できませんし、わかりません。まず、東北地方の生乳が、西日本に流通する、ということ自体、 我々が理解しちゅう流通では、あり得ない話ながですけんど。どっかの安売りメーカーが、裏の手段を駆使してそんなことをやったりするがでしょうか。僕たち にはわかりません。
本当にご苦労されている松永社長さんは、明るく元気な方で、現状を色々と語って下さいました。南相馬は、「復旧」、つまり「旧」に復す、ということは、もう、無理であろう、とおっしゃっておられます。農業も観光も。
そこで、放射能の除染などの国際的なモデル地区、研究特別地区として、「復興」させていくしかないのではないか、ともおっしゃっておられました。工場から5km南へ行くと、原発事故による立ち入り禁止区域。
写 真は、松永さんの工場からもうちょっと北へ行った国道沿い。海岸から数キロ内陸ながですが、このように荒れ地に漁船がゴロゴロ。海岸部へ行くと、あちこち に瓦礫がつみあげられた空き地が続きます。想像もできませんが、住宅が並び、松並木が連なっちょったそうです。今は瓦礫と建物の基礎の痕跡以外何もありま せん。
国道6号線沿いは、津波の爪痕がまだまだ残り、瓦礫、残骸がまだまだ放置されております。ここ南相馬では、まだ、漁船などもそのまんま。原発の関係で、後片付けも、他地域より時間がかかりゆうようです。
これから、とてつもない時間と努力が必要でしょう。今は、何もできない無力感が襲うてきますが、やはり、未来を見据えてちょっとづつ、継続的に、やっていかんといかんがでしょう。気が遠くなるくらい根気が必要で、それを突きつけられる、東北の現在の姿です。