伊予の皆さんの、長宗我部さんに対するスタンス〔3004〕2011/07/07
2011年7月7日(木)曇りぞなもし
ここは道後。松山の道後温泉。昨夜から出張で来ちょりまして、早朝、湯築城界隈をたつくってきました。
道 後温泉入り口に、標高70mくらいの山があります。この山一帯は、伊予の有力守護大名、河野氏の本拠でございました。源平合戦でも活躍した名門、河野氏 が、ここに本拠を移したがは南北朝の時代。温泉が出るので湯築城。土佐物語によりますれば、ここを本拠とする河野通直さんを破り、落城させて、長宗我部元 親さんは四国を制覇した、ということになっちょります。しかし、公園として整備されちゅうこの城址の案内板には、長宗我部のちょの字も出てきません。
実 は、元親さんがここを陥としたかどうかは、議論になっちゅうがですね。元親さんは、四国全域を「ほぼ」手中に収めちょりました。が、どうやら、ここ道後の 城は落城しちょらんかったという説があります。毛利氏の援軍を頼んだ河野氏は、秀吉の四国攻めまでなんとか持ちこたえた、という説です。その、結構重要な 役回りを演じたお城がここ。
その山裾に、このような「湯釜」がありました。案内板によりますれば、何と奈良時代につくられた石造りの湯釜にかあり ません。こりゃあ古い。で、明治27年まで、道後温泉本館で現役で活躍しよったと言いますきにすごいです。上部に宝珠がありまして、「南無阿弥陀仏」と刻 まれちょりますが、それは、河野氏の一族である一遍上人が刻んだものとされます。
松山の皆さんにとって、お殿様と言えば河野の殿様でしょう。強力な水軍を持ち、源平合戦でも重要な役割を果たした豪族、河野氏。
元親さんとの関係はどうやったがでしょうか。この史蹟のどこを探してみても、長宗我部のちょの字もでて来んがは、伊予人の、長宗我部氏に対するスタンスが滲み出ちゅうがでしょうか。