勝瑞城と長宗我部軍〔2969〕2011/06/02
2011年6月2日(火) 曇っちょります
今日も徳島に来ちょります。ですきに、昨日に引き続き、長宗我部元親さんの阿波侵攻について、ちくと書きます。
阿 波攻めについては、元親さん、2面作戦を敢行しました。室戸側の東南から、弟の香宗我部親泰が攻め上がり、昨日の白地城には谷忠兵衛をおいて守らせながら 久武内蔵助たちが吉野川沿いを攻め下って阿波を支配する三好氏、十河氏を退却させていったのでありました。三好氏惣領の三好長治は、人心を失うちょりまし たが、讃岐の十河家に養子に入っちょった弟、十河存保(まさやす)が三好家の跡継ぎとなって、勝瑞城に依って、長宗我部軍の攻撃を迎え撃つ事となったので ありました。その、阿波軍の本拠、勝瑞城があったのがここ。藍住のインターチェンジからちょっと東。平地の中にある平城ですが、吉野川の本流支流に囲まれ た城。
てな訳で、1579年頃には、勝瑞城を本拠とする十河存保を、長宗我部軍の包囲網が徐々に追いつめて行く、という構図になっちょったがです。
ところが。
四 国切り取り自由、誰ガタメノ剣ではTake free を認めてくれちょったはずの織田信長ですが、ちくと元親の勢いが気になり始めたがでしょう、約束を覆して、土佐一国に帰れ、と言い出しました。元親さんが 拒否すると、四国へ兵を出します。ここで元親さんの阿波侵攻計画は頓挫したかに見えましたが、なんとここで本能寺の変。阿波も大混乱に陥り、元親さんは一 気に阿波を支配下に入れるよう、軍を進めました。1582年のこと。5月が本能寺の変で、8月にはこの勝瑞城の東の中富川を挟んでの決戦となります。この 大決戦に勝った長宗我部軍は、翌月、ここ勝瑞城に攻め込みます。折からの豪雨で大水となり、この平城周辺も海のようになって長宗我部軍も苦境に陥りました が、4日後に水が引き、攻め陥として、元親さんは阿波の覇者となったのでありました。
徳島県人にとっては、あまり思い出しとうはない歴史でしょうか。