国道33号線やった道〔2946〕2011/05/10
2011年5月10日(火)降ったり照ったり曇ったり
ここは、左下に見えるように日の出町。知寄町の北の、東西に走る道。ご覧の通り、かなりまっすぐ。この道について、今日はご紹介します。
昨日一昨日と、馬場孤蝶さんの話を書きました。その、高知へ帰って来た際に書いた日記が「帰郷日記」として本になっちょります。その本に、その大正11年の高知市街図というがが付録として付いちゅうがです。それを見ますと、少し目から鱗。
この市街図に記載されちゅう国道は2つ。一つは、山田橋から北へ、池田を経由して琴平に至る国道32号線。そしてもう一つが、実はこの道路ながです。
この道は、西へ西へと行けば追手筋。そして追手門に突き当たります。そう。当時の国道はどうやら高知城追手門が重要ポイント。追手門を出て追手筋を東進、蓮池町で、北へ曲がると山田橋を渡って32号線に、直進すると、ここを通り、葛島橋を渡ったところで電車通りと合流、後免まで、電車通りと平行して走っちゅうがです。つまり、電車通りは、葛島橋までは国道ぢゃあなかった訳で、この通りがメインストリートやったということになります。ご存知でしたでしょうか。
そして、その市街図には、この道路が国道33号線で、甲浦を経由して徳島に至る、と、書いちゃあります。国道33号線。現在国道33号線と言えば高知と松山を結ぶ道路。たぶん当時は、その道路は県道松山高知線。で、これが国道33号線やったと思われるがです。
この道が整備されたがは明治時代。東向きの幹線道路として整備されたがでしょう。ですきに、昭和の頃まで、この道路はそこそこ賑やかな通りでした。高知県立中央病院がこの道沿いにあったがも、重要な道路沿いやったきながかも知れません。なんであんな道路の狭い、住宅の密集した場所に中央病院をつくったがか謎でしたが、幹線道路沿い、ということやったがですね。
早朝の静かな日の出町。国道やった時代に思いを馳せ、街の動的平衡を体感しました。