津波は何度もやってきます〔2890〕2011/03/15
2011年3月15日(火)曇り
昨日の赤岡、岸本浦から東へ行くと、手結(てい)の街があります。大地震の度に甚大な被害を被る手結。その街中に、観音山という小さな山があります。街中の皆さんの命山。津波で避難してくる命山。この山の上に、以前にもご紹介した、安政の南海地震を後世に伝える碑が立っちょります。昨日の例に倣い、土佐弁に読み下してみます。
奉納延命十旬観音経一百万遍也
万民の安全長久のために
地震津波のことを書いちょく。嘉永7年(1857 年)11月4日早朝から地震があった。それから一日の間に7~8回も、海が満ちたり引いたりして、こじゃんとおかしゅうなったけんど、みんなあ不思議ぢゃのう、というて怪しむばかりやった。翌5日は、キレイに晴れ上がり、夏みたいに暑かった。その午後4時頃に大地震が起きたがよ。天地が崩れるばあ揺れて、老若男女、とにかくビックリして蚊が鳴くみたいな騒ぎになった。その後、日没頃に、津波の第一波が襲うてきて、西町から東へと打ち入って来た。みんなあ、また、こじゃんとビックリして騒ぎよった。食べ物とか着る物とかを引っさげて、この山上へ逃げてきた数百人は、なんとか助かったので、まっこと、この山は命の山と、永く伝えていくことになったがよ。
そのうちに第二波がやってきたけんど、これは小さかった。そして、潮が300mくらい沖に引き、それから第三波が襲うてきた。午後8時ばあぢゃ。この第三波で、家も蔵も、いっぺんに流失してしもうた。津波のあとは「白浜」となって、目も当てられん惨状になってしもうた。こんなことがあってエイろうか。金目の物、大事な物を家に残してきても、絶対に、取りに戻ったらいかんがぜよ。これを、絶対に絶対に忘れたらいかん。
筆者 福重鉄次郎
以上が、この大きな石に刻まれちゅう文面。これを知っちょったので、テレビで、津波がきた後、すぐに街へ戻って様子を見ゆうヒトが映像に映っちゅうがを見て、「そんなことしたらいかん!」とテレビの前で叫びよりました。
福重さんという方が、後世に、どうしても伝えたいと思うたことを、我々はどれくらい受け止めちょったでしょうか。現代は、情報網も整備され、対策もでき、家も丈夫になっちゅうき大丈夫、などど思いよったら大変なことになります。この碑が刻まれた時代の状況と、なんら、変わっていない、ということが、今回の大津波でよくわかりました。