関ヶ原と明治維新〔2672〕2010/08/09
2010年8月9日(月)よう晴れちょります
夜明け前まで結構ガイに降りよった雨もあがり、空は晴れ上がってきました。今晩は鏡川の花火。天気予報はみょうにホッコリしませんが、どうなるでしょうかね。明日からはよさこい。やっぱしよさこいはたまんらんばあ暑いががよう似合います。
ここは夜明け前の南国市田村。三宝山が、明るみ始めた東の空に影絵のように浮き上がっちょります。あの山に登ると、香長平野がすべて見渡すことができまして、戦国の頃に武将たちが何を考え、どう動こうとしたがかが妄想できます。楽しいですよね。
妄想と言えば、昨夜、龍馬伝を見よって、ひとつの確信めいた妄想をしてしまいました。関ヶ原の合戦と明治維新について。龍馬伝も、いよいよ薩長秘密同盟へと突入していきよりますが、ご承知の通り、維新のキャスティングボードを握っちょったのは長州と薩摩。それに土佐の郷士がからんでいきます。
こないだ、関ヶ原へ行って石田三成本陣から布陣を眺めてみた話を書きました。布陣が完了した段階では、どう考えても西軍の勝ち。東軍を狭い平野に誘い込んで取り囲んだかたちですきんねえ。が、まず、石田三成の要請を断って動こうとせんかったがが島津軍。島津義弘は、島津のための戦闘はしたが、西軍の為に戦うことはなかったと言われちょります。その次に動かんかったがが毛利軍・こないだも書きましたが、南宮山に陣取った大軍は、一族の吉川軍が目の前で動かんかったがをえいことに静観。徳川から、動かんかったら領地は安堵するという約束をされちょったとも言われます。そしてもう一人、動かんかったがが毛利のもっと向こうに居った長宗我部盛親軍。心情的には東軍やったと言われ、西軍に阻まれて東軍に合流できんかったために便宜上西軍になったとされます。これも、たぶん、動かんかったら土佐一国は安堵してもらえると思うちょったフシがあります。
さて、結果は東軍勝利となった訳で、島津軍はかなりの被害を受け、毛利は約束に反してこじゃんと小さい領地に縮小させられ、長宗我部にいたっては領地没収。
明治維新は、島津の薩摩、毛利の長州、そして長宗我部の遺臣を中心とする土佐の郷士たちが中心になって行われました。因果応報でしょうか。昔の遺伝子がそうさせたがでしょうか。関ヶ原で石田三成に言われても動かんかった島津、毛利、長宗我部が、260年後、ついに動いたということでしょうか。