浦戸町、長岡謙吉邸跡〔245〕2003/12/17
2003年12月17日(水)晴れ
今朝も快晴。今日は、高知市浦戸町に来てみました。高知城下建設の際、長宗我部が本拠とした浦戸城の城下町から水主を中心に移住させてきてできた町ですね。正面のノッポビルはマンションの「トップワン四国」。高知で一番高いビルです。
左の大きな建物は、高知市文化プラザ「かるぽーと」。
手前の角の駐車場のある辺りに、維新で活躍した海援隊士「長岡謙吉」の家がありました。案内看板も無いので少し判りづらいですね。
長岡謙吉は、医師の家系に生まれ、母は坂本龍馬の継母の縁戚だそうです。ここから北へ20m程のところに幕末のハイカラ画家で知識人、国際事情にも精通した「河田小龍(かわだしょうりょう)」が住んじょりまして(にっこりひまわり[191][238]参照)、彼からたくさんのことを学ぶ機会を得ます。
大阪で医学を修めたあと1859年に脱藩、長崎で西洋医学を学び、シーボルトにも教えてもらいました。シーボルトの息子アレキサンダーに日本語を教えたのは長岡謙吉と言われちょります。
その後土佐藩に帰りますが、脱藩の罪で蟄居の日々がつづき、土佐で「しまか」に暮らします。
が、風雲急を告げてきた1865年再び脱藩、坂本龍馬の「土佐海援隊」に参加して中心人物となります。有名な「船中八策」や「大政奉還の建白書」などの起草に深く関わったとされちょりますね。すごい人物です。
龍馬の死後、再編海援隊の隊長になったりして活躍し、明治新政府では、「三河県知事」「大津監察」「民部省大録」「大蔵省大録」を歴任して「工部省一等出仕」になり、明治5年に没しています。
これだけ大活躍したのに、没したときの年齢はなんと39歳。すごいですね、この時代の人物は。