十善寺溝、深淵、南北朝〔2247〕2009/06/10
2009年6月10日(木)雨
昨日、高知県地方も梅雨入りしたそうです。ですきに、今日は梅雨らしい一日中しとしと雨が降るお天気になりました。
こないだ、6月2日のにっこりで、野市の三叉をご紹介しました。野中兼山さんが開鑿した上井(うわゆ)川が3つの水路に分かれる所。あの、右端の水路、十善寺溝を下ると、ここへ出ます。ここは、先月5月14日にご紹介した野市の深淵神社の前。
野中兼山さんは物部川に町田堰という堰をつくりました。そっから引いた用水が上井川で、そっからつながっちゅうががこの十善寺溝。
町田と言うたら、戸板島の上の佐古野上。物部川で有名な野中兼山さんがつくった堰と言えば山田堰ですけんど、あの堰からは西に向いて舟入川が開鑿され、浦戸湾方面へと繋げて界隈の農地が切り拓かれました。町田堰からは、物部川の東に水路が掘られ、現在の野市を発展させちょります。
町田堰は長さ160間(291m)、幅8間(14.5m)、高さ5尺(1.5m)の巨大な堰で、松の木を36850本、大石を1085坪使用したと記録されちゃありますきに大工事。それに駆り出された労役たるや、すさまじいものがあったと推察されます。
ところで、当時開鑿された水路は、「溝」という名称で呼ばれよったがですな。ここも十善寺溝ですし、四万十市安並の、水車で有名な水路は四ヶ村溝。春野のあじさい街道のところは何溝やったがでしょうかね。
この北西に殿内とか土居下とかいうホノギ名があるので、その界隈に深淵城という砦があったと推察されます。南北朝の昔、北朝方の佐伯経貞さんが、その城に攻め込んだという文書が残っちょりますきに、どうやら南朝方の武将が守っちょった城と思われます。佐伯経貞さんと言えば、土佐の南朝方の英雄、大高坂松王丸さんを攻めて自殺に追い込んだがで有名。佐伯氏は、今の南国市田村の豪族入交氏とも、深淵の川原で戦うちょりますきに、この界隈は南北朝合戦の激戦地やったらしいのであります。が、城主とかの詳細はわかっちょらんらしいですね。
ちなみにその入交氏は、現在の土佐の名族、入交さんの祖先。土佐の歴史は色々と複雑に絡み合うちゅうのでありました。