金比羅街道 一の灯籠と瀬山登さん〔1850〕2008/05/09
2008年5月9日(金)讃岐は曇り
そんな訳で今朝は讃岐。丸亀の朝です。昨日、高知から香川、岡山、広島、そしてしまなみ海道を通って愛媛とまわり、夜、坂出の香川支店にたどりつきました。長距離運転に慣れてないもんですきに、結構コタイましたです。
で、丸亀に泊まっちょった訳ですが、今朝はいつもとは趣向を変えて、港界隈をたつくってきました。丸亀の港は、金比羅さん参りの船着き場として栄えた港で、船で本州からやってくる参詣客は、丸亀から上陸し、金比羅さんへと向かいよった訳ですね。
その港に、この写真ではその大きさが伝わらんがが残念ですけんど、大きな大きな青銅の灯籠が建っちょります。高さは5.28mやそうですきに、立派なもん。これは、天保9年(1838年)に作られたそうで、金比羅街道一の灯籠として、信仰と航路標識のためにここに鎮座してきました。何でも、ここの金比羅宿のご主人が江戸へ行って千人講を作り、結局1357人の浄財を集めてつくられたものやそうです。細かい名前がどっしこ刻まれちゅう中に、一際目立つのが「江戸本所相生町 塩原太助」という名前。何と、80両もの大金を出してくれた富商やそうです。すごいですな。
この灯籠は、ここの港を新しく「新堀湛甫(しんぼりたんぽ)として整備したがに併せてつくられたがですが、その港を整備するのに大活躍したがが写真の人物。瀬山登さんという丸亀京極藩の重臣。江戸屋敷詰め留守居役の時、幕府老中やら豪商やらに働きかけて、ここの立派な港を、藩の金を使わずにつくりあげたという、藩にとっての大功労者。もちろんこの灯籠の千人講にも深く深く関わっちょります。この港が整備されたおかげで、丸亀はどんどんと栄えることになったそうです。森の石松さんも、ここで船を下りたがでしょうか。
更に、瀬山さんの凄いところは、江戸の京極屋敷の隣、九州中津藩の屋敷に団扇づくりの技術があることを知って家中の者にそれを習得させ、丸亀に帰らせて金比羅参りのお土産物として製造販売したところが大当たり。今、丸亀は団扇づくり日本一ながですが、その原点もこの人物やったがやそうです。
いやいや、朝っぱらからこぢゃんと勉強になりました。