潮江天満宮、中内久太郎さん寄進の鳥居〔1176〕2006/07/05
2006年7月5日(水)降ったりやんだり
しかしまあ、昨夜は降りましたね。こぢゃんとガイに降りました。風もエラかったですな。会社へ来てみましたら、ひまわり太郎の居る部屋が水浸し。普通の窓の上にある小窓がちっくとスイちょりました。吹きぶってきたがですな。ゴヨウジンゴヨウジン。今朝の鏡川は、茶色い濁流がゴンゴンと流れよりました。
台風3号(イーウィニャ)は、この週末に高知方面を窺う感じで北上しよります。こぢゃんと強い勢力らしいですきに、用心せんといかんですね。
さて、ここはいつもの潮江天満宮。左の灯籠の向こうが手水。突き当たりが鏡川の堤防です。向こうの大きな鳥居は、以前にもご紹介しましたが、得月楼(陽暉楼)楼主、松岡寅八さんが大正3年に寄進された鳥居。映画のモデルにもなった、なかなかの人物(2004年9月7日にっこり参照)。
手前の鳥居には、「南與力町 中内久太郎」と刻まれちょります。南与力町はひまわり本社のある町。そこに住まわれちょった中内さんとはいかなる人物なのか。
てな訳で、高知新聞社発行の「高知県人名事典」を見てみますと。中内久太郎さんは、なかうちきゅたろうと読みます。1867年、伊野で生まれ、父親の経営する紙商丸一に勤務、その後発展して土佐紙(株)になったその会社で、1916年から社長を務めたそうです。1926に合併して日本紙業(株)になると副社長に就任、退職後も、高知の紙業発展のために尽くされた人物である、と紹介されちょりました。高知の紙業発展の偉大な功労者ということですね。この鳥居は昭和2年11月、ひまわり太郎の父親が生まれる一ヶ月前に寄進されちょります。中内さんが日本紙業(株)で副社長をされゆう頃のことですね。その当時、南与力街に住みよったという訳です。