山内一豊公騎馬像と高知の町〔561〕2004/10/28
2004年10月28日(木)素晴らしい快晴!
今日も高知はよう晴れちょります。朝晩はかなり冷えるようになってきましたね。布団をキチンとかぶって寝ませんと、風邪をひいてしまいます。
昨夜、ひまわり太郎からお願いしまして、土佐史談会の先生に、とある会合で山内一豊とその妻について講演して頂きました。
再来年のNHKの大河ドラマは、山内一豊とその妻を主人公にした司馬遼太郎の小説「功名ケ辻」に決定しました。そこで、山内氏の実像を高知の皆さんにキチンと認識しちょいてもらいたかったので、このテーマ選んだ訳であります。
一豊さんという人物は、小さい頃から苦労に苦労を重ね、大変な不幸にも見舞われつつ、その誠実さとしぶとさで戦国の世を生き抜いていきました。秀吉に認められて次第に出世し、遂には遠州掛川5万石の大名にまでなりました。ここは、大井川などの大河が流れるデルタ地帯で、治水がとても難しい所でした。ここに10年。治水と都市計画に抜群の才を発揮し、しぶとく町をつくりあげました。秀吉にも、都市計画の技術者として認知されちょったようです。
関ヶ原では、軍功はありませんでしたが、いち早く家康に人質を出して他の武将の先がけとなったり、大阪城内の情報を素早く家康に伝えたり、といったシブイ功績により、土佐22万石(当時)の大名に抜擢されます。大出世ですね。
そして、長宗我部元親が根城にした浦戸城や、昔から国府のあった現在の南国市界隈を選ばずに、川に挟まれた湿地帯ではあるものの、とても便利な位置にある所にある広い場所に目をつけました。そこが、現在の高知市中心部なのであります。
ここにお城と城下町を創るなどということは、日本でもトップクラスの技術を持つ山内一豊集団でなくては実現しなかったのではないか、とも言われよります。一豊さんは、高知の町の建設者として、語り継がれていかんといけません。
写真は、高知城の下、追手門のすぐ東にある一豊公の騎馬像。戦争で供出され、しばらく無くなっておりましたが、近年復活しました。
今朝気付いたんですが、一豊騎馬像と高知城天守閣を一枚の写真におさめることができんのであります。この右手の木を伐採してもらえば、この東の公園から一枚におさまる写真を写すことができるんですが。惜しい!
今度話ししてみますね、管理者に。