記憶の伝承と妄想〔5116〕2017/04/18
2017年4月18日(火)晴れ
それにしても、昨夜は降りましたね〜。それに、吹きました。時化。今、低気圧は東の方へと移動して東日本が荒れ模様にかありませんが、高知の空は、雲は多いものの青空も見える。穏やかな、朝。
写真は今朝、4時半過ぎの潮江天満宮本殿裏手。昨夜の嵐で、木の枝や葉っぱが散乱してます。この鳥居をくぐり、前方の細道を上がっていくと、小山のてっぺんに大山祇神社。そして、磐座。
その大山祇神社の祠の横には、以前、「古老の言い伝えで手箱山から勧請してきた」と書かれた説明板があった。確かに、ありました。その文字はいつしか擦れて見えなくなり、今は由来未詳とかかれた立て札があるばかり。
2014年5月4日に、四国山地に聳える手箱山(1806.2m)や筒上山(1859.3m)に登ってみて、なんとなく、色んなことが判ってきました。
まず、勧請元は、恐らく手箱山ではなくて筒上山。そこに、潮江天満宮で代々宮司をつとめてきた宮地さんが、大山祇神社を創建したのは、幕末のこと。霊験を感じる人物であった宮地さんは、神の導きで筒上山に大山祇神社を創り、たくさんの神様を祀って信仰の山にしていったとのこと。
で、この潮江天満宮本殿裏手の、大山祇神社。
「古老の話」ということでしたが、上記の経緯から推察して、ここに、手箱山の隣の筒上山の大山祇神社を勧請してきたのは、たぶん明治になってからのこと。そんなに大昔の話では、ない。その「古老」が生きていた時代の話ではないでしょうか。百数十年前の、話だ。
しかし、既にもう、経緯や由来が不明になってしまっている。まだ、当時から言えば何代も経過していないのに。
世の中、そんなもんかも知れません。
そんなに昔でもない時代のことが、伝わっていない。ほんのこないだまで当り前であったことが、今では想像もできないことになっている。神仏習合の社会は、ほんのこないだまで、日本の社会のスタンダードであったのに、今は想像もつかない。里山は、今みたいに樹々や竹藪に覆われておらず、燃料や草肥への利用で、今の高見山みたいな景観であったことも、今からは想像もできん。人間の記憶とか、その記憶の伝承とかは、実に曖昧にしてあやふやなものだと実感されますね。
だから、色んなことを検証して、昔の本当の風景、姿を想像してみるのは、本当に楽しいこと。
この天神様の裏の細道。
この小山の上には磐座が鎮座まします。が、このような参道がしつらえられたのは、明治以降、大山祇神社が勧請されてきてからだろうと、思う。それまでは、参道は、なかった。
この小山に巨木はない。なので、かつては、てっぺんに磐座がむき出しになった、樹々のない小山であったのかも、知れない。う〜ん。妄想が膨らむ。
大山祇神社の祠の横に、小さな手水。毎年夏頃になると、ここには夥しいカニが上がってきます。そして、その手水の中に集まって脱皮を繰り返す。毎年。
大山祇神社も手水もなかった頃。カニはどうしていたのだろう。いつ頃、手水で脱皮するようになったのだろう。あの手水がなくなったら、カニはどうするんだろう。
まだ暗い早朝から、そんなどうでも良いようなことを考えるのは、頭のリフレッシュに最適です。本当です。