上岡の悲劇〔5047〕2017/02/08
2017年2月8日(水)晴れ!
良いお天気。風が少しだけ、冷たい。
ここはいつもの野市、上岡。午前4時半頃の上岡は、まだ、静かに眠っています。
上岡の集落は、古い古い由緒ある集落。集落のあちこちに祠があり、屋敷墓もたくさん。太古の昔から人々が暮らしてきた、ということが体感できる集落、上岡。
野市の洪積台地の端っこ。段丘崖を南に下りると、物部川河口の沖積平野。肥沃な農地。
水はけが良くて暮らしやすい台地上に集落。肥沃な農地が、すぐ近くに確保できる。そんな条件が、この地に人々を引き寄せてきたのでありましょうか。
その野市の集落の真ん中、祠の横に、このような碑が立ちます。以前にもご紹介したことがある、「被爆之碑」。こんな田舎の平和そうな集落に、場違いな名前の碑。
裏面に刻まれた文章を転載します。
「上岡地区は太平洋戦争末期の昭和二十年五月三日 米軍B29の爆撃を受け 地区民七名地区外一名軍人二名死亡 家屋全半壊等多数の被害を受けた 戦後五十年を経て 再びこのようなことのないように 恒久の平和を祈念して 被爆の碑を建立する」
平成七年(一九九五年)八月十五日
被爆の碑建立発起人
上岡地区民 一同
そんな歴史がありました。
この、物部川の対岸を南へいくと、高知空港。そこに、海軍航空隊の飛行場が建設されたのが昭和19年3月。偵察要員養成のための部隊で、練習機「白菊」で日々、訓練をつんだ若者たち。
戦況が悪化し、偵察要員であったはずの彼らも、特攻隊員として使われるようになり、南の海へ飛んでいった、そんな悲しい歴史が、ここにあります。
高知海軍航空隊の飛行場に、米軍機の攻撃が始まったのは昭和20年3月19日のこと。艦載機のグラマンによる攻撃。
3月10日に東京大空襲があり、3月14日に大阪大空襲。そして、硫黄島の日本軍が玉砕したのが3月17日。硫黄島陥落の2日後、艦載機による攻撃があった訳だ。
その後も、その飛行場への米軍の攻撃は続く。
そして、5月3日。B-29が、この集落界隈を爆撃しました。この碑文にもあるように、何の関係もない地元の方7名、地元外の方1名、それに軍人2名が亡くなっています。
幾度かご紹介した、戦争遺跡の鳥居なども、この日の空襲で破壊されたものでしょうか。
それにしても何故、飛行場から少し離れたこんな場所にB-29の爆撃が敢行されたのか。
その謎を解く鍵が、「軍人2名」にあるかも知れません。
八幡様が鎮座まします上岡山には、軍によって、トンネル壕が掘られていました。なんらかの意図をもって。ひょっとしたら対空砲火の基地にしようとしていたのかも知れない。実際に、この上岡界隈から、グラマンに対して攻撃していたのかも、知れません。
飛行場を狙う米軍は、その鬱陶しい対空射撃の基地を、キチンと叩いておきたかった。そこで、5月3日、B-29を差し向けて空爆を敢行した、というストーリーが想像できます。
軍人2名は、上岡で、対空警戒か対空射撃を行っていた軍人さんかも知れません。
間違いないのは、地元の7名は、なんの関係もなかった、ということ。
まだ眠る集落にたたずむこの碑には、そんな悲惨な出来事を後世に伝えていこう、という想いが込められている。