大分別府早朝マラソン〔4534〕2015/09/14
2015年9月14日(月)薄曇り
そんな訳で今朝も大分。昨夜のトリニータの試合は、終了直前にロアッソ熊本に得点を入れられてしまい、惜しくも敗北。残念でした。まあ、それはそれ。これからの奮起に期待しましょう。
で、試合終了後、ホテルへ到着したのが21:00。それから、飲みに出まして、大分の美味しい鳥を食べて焼酎を飲んでホテルへ帰ったのが23:50頃。
気持ちよく寝て、5時に起床し、今朝は別府まで走ってきました。大分別府早朝マラソン。大分と別府の間は、15kmなんですね。早朝ランにはぼっちり。
別大マラソンが昔から開催されることからもわかるように、別府と大分の間の国道10号線は実に良い道路なんですね。海岸線の、実に美しい風景の中を走ります。走っておりますと、背中から朝日が昇りはじめ、遥か前方に見える別府の街が輝き始める。なんという美しさ。
今まで、大分には何度も泊まっちょりますが、別府へ走るのは初めて。これは迂闊でした。別府まで走っちょいて、帰りを電車ということにすれば良いだけなのに、そこに思い至っちょりませんでした。
で、写真は別府駅前。
ここに、不思議な像があったので、撮影してみました。近づいて見てみると、「油屋熊八の像」と書かれちょります。「子どもたちをあいしたピカピカのおじさん」とも。この剽軽な像の手のひらの上には、鳩が休んでおります。
像の台座の後ろ側に、このおじさんのことが書かれちょりました。面白いので全文転載しましょう。
あぶらや・くまはちのプロフィール
・1863(文久3)年、愛媛県宇和島の米問屋に生まれる。小さいときから働きもので有名だった。
・30歳のとき大阪へ出て、米の相場で成功し、巨万の富を手にする。つけられたアダ名が”油屋将軍”。
・34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。
・3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。
・46歳のころ、別府温泉へ移り住み、ホテルを経営しはじめた。それがやがて、世界のお金持ちを迎える一流ホテルに成長する。
・アメリカで目にしたスケールの大きな観光地づくりを実践。大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、”山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・。当時はだれも思いつかないような奇抜なアイディアをつぎつぎに実行した。
・美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめてつくったのもこの人である。”地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。
・この人のまわりには、別府観光のためならなんでもしようというオモシロイ人たちがあつまった。みんな子どもたちが大好きで、「オトギ倶楽部」を結成し、童話や歌や演奏を聞かせた。クリスマスにはサンタクロースが水上飛行機から下りてきて、子どもたちをびっくりさせたりした。「オトギ倶楽部」で、あぶらや・くまはちは”ピカピカのおじさん”とよばれていた。
・湯布院温泉を観光地として開発したのもこの人だった。当時描いていた観光プランは別府ー湯布院ー久住高原ー飯田高原ー阿蘇ー長崎をむすんで道路をつくるという、九州全体を視野にいれたものだった。
・1935(昭和10)年、別府市で死去。73歳だった。くまはちが抱いた”ここを世界の観光地にしよう”という夢は、いまもこの町のあちこちに生きて息づいている。
以上転載。なかなかどうして。すごい人物だ。その人物の、こんな像を建てる別府のひとたちも、なかなかどうして。
大分別府早朝マラソン、なかなか楽しゅうございました。