陸軍墓地〔4411〕2015/05/14
2015年5月14日(木)晴れ
今日は、午前中、朝倉で用事がありまして、高知市西部に来ちょります。朝倉。
現在の高知大学のところには、陸軍歩兵第44連隊があったのはご承知の通り。大学本部は、連隊本部があった場所に建てられ、連隊本部前にあった庭と池が、現在も往時の雰囲気を残しておると言われます。
朝倉駅から少し南へ下った道路脇。造幣局があった界隈には、44連隊の弾薬庫が、そのままの姿で残っちょりますが、連隊痕跡は、その庭、池、弾薬庫くらいしか判然としません。
一方、現在の国立病院。国立病院は、陸軍病院跡地。国立病院の北側の狭い道を入っていくと、敷地境目のフェンスのところに、小さな「高知陸軍病院跡」と刻まれた碑があるばかり。
陸軍病院の南西側には射撃場。現在の、荒倉トンネル方面へ向かい道路の北側。自動車屋さんとかが並んじゅう辺り。
そこから北側の山を上がっていくと、朝倉中学校があります。そのすぐ上。広い、雑草が生い茂って緑がまぶしい場所があります。陸軍墓地。
手水舎に、この陸軍墓地に祀られちゅう戦没者、合計12,000余柱、と書かれております。日露戦争から太平洋戦争までの間に、朝倉44連隊関係で戦死された方々。
写真の一番奥に、大きな忠霊塔。そして左側には、個人の氏名や住所、階級、戦死された年月日などが刻まれた墓碑が並びます。
墓碑を読み取ってみますと、ほとんど、明治37年前後。そう。44連隊から日露戦争に従軍し、戦没された方々の墓碑。高知県だけではなく、県外の方々も見えます。
手水舎に書かれた記録では、そんな日露戦争の墓碑が64基。
ここに陸軍墓地が作られた時、ここに、どれだけの戦没者が祀られることになるのか、予想もしてなかったと思います。一人一人、丁寧に、住所番地まで刻まれた日露戦争戦没者の、墓碑。
しかし。
奥に屹立する忠霊塔。忠霊塔の下の納骨堂に安置されている英霊は9.818柱。
内訳も書かれていますが、圧倒的に大東亜戦争。つまり太平洋戦争。もう、個人別に墓碑を建立などできない、すさまじい戦死者の数。そんなことになるとは、軍の関係者でも予想もしていなかった、そんな、戦争。
この陸軍墓地の、日露戦争の一人一人の墓碑と、大きな忠霊塔を見ると、そんな時代の流れが見えてきます。
こないだ、濱口雄幸さんのことを書きました。満州事変から、政党政治の終焉、そして国際社会からの孤立を良しとしながらの軍、マスコミ、そして大衆の暴走。
そんな歴史を、論文や書籍によって、理性的にキチンと学ぶ。
そんなことの大切さが、この陸軍墓地の歩んだ経緯に鑑みて、ズシンと実感されます。
写真手前の燈籠。この燈籠には、昭和十七年一月、との年号が刻まれちょります。
海軍は、南太平洋までどんどんと進出し、陸軍はマレー半島を南下してシンガポールを目の前にしていた時期。燈籠をご寄進した人々は、ここに、まさか一万を超える英霊が祀られることになるとは、夢にも思っていなかったと思われます。
時代の空気、流れは、その空気を意図的につくった人々にも、決して止めること、制御することができなくなる。人類の長い歴史が証明する、一つの事実。