山内神社、御親兵、土佐と薩長、森中将〔4406〕2015/05/09
2015年5月9日(土)小雨
小雨。ここは今朝の山内神社。小雨パラつく山内神社。
何度かご紹介してきましたが、明治4年に、最後の土佐藩主、山内豊範さんによって創建された、山内神社。初代藩主山内一豊公はじめ、山内一族をお祀りする神社。
元々、お城の下に藤並神社がありまして、そちらに、一豊公、奥様の見性院、2代藩主忠義公をお祀りしちょりました。で、明治になり、山内神社ができて、その後の藩主が祀られるようになり、色んな変遷の末、昭和45年に、初代から16代豊範さんまで、すべての藩主が祀られるようになった山内神社。
参道入り口には、大正4年に、藤並神社の山内一豊騎馬像両脇に建てられた巨大な燈籠。昭和45年に、この山内神社に移設されてきた訳ですが、これ、運ぶがだけでも大変やったでしょうな。
その巨大燈籠の次に、両脇に並ぶのが、この写真の燈籠。
向かって右側の燈籠は、以前にもご紹介しました。山内神社が創建されてしゅっと、御親兵第一大隊第四小隊の隊員たちによってご寄進された燈籠。
ここでおさらい。
明治4年1月に、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が高知へやって来ました。で、来たるべき廃藩置県に備え、新政府の軍事力を強化する為に、土佐から御親兵を献上するよう働きかけた訳だ。それに応じて東京に送られた御親兵。その隊員が、上京に先立ってご寄進した、燈籠。
よく見ると、隊員の氏名が刻まれちょります。それも、奥田一作義臣、とか、すべてミドルネーム入りで。まだ、武士の遺風が残っておった時代。
却って、向かって左手の燈籠には、普通に姓名のみが刻まれちょります。ん?
と、思うて、説明板を読んでみますれば、まったく同じ時に寄進されたように見えるこの2つの燈籠、実は、左手のは、翌年の明治5年、12代藩主豊資さんが亡くなった際に、その豊資さんの側小姓、祐筆、御膳番などの側近の皆さんによってご寄進されたもの。
つくりが殆ど同じなので、同じ石工さんに発注したがでしょうね〜。まあ、対になって、良い感じではあります。
さて、御親兵。
後の近衛兵となる、御親兵。土佐は、明治新政府には、それなりの兵力を供給しました。で、西南戦争で活躍した谷干城さんなどの優秀な軍人も、輩出。
しかし。
明治の軍隊は、圧倒的に長州、薩摩に牛耳られることになります。土佐人気質として、同郷の者を無理に引き立てたりしない。徒党を組むことを潔しとしない。
山県有朋が長州閥で固めていったのに引き換え、板垣は野に下って自由民権運動を主導し、谷干城は軍人をやめて貴族院議員として政府のご意見番となる。
土佐の軍人が、大将になったりするのは、ずっと時代が下ってから。
ちなみに、明治4年に御親兵を差し出したのは、土佐藩、薩摩藩、萩藩。その後、薩長のみが、軍隊を牛耳っていった訳ですな。
昭和20年8月14日。いわゆる宮城事件というクーデター未遂事件で、終戦に反対する若手将校の決起要請を断って殺害された近衛師団長、森赳中将。森中将の断固とした態度が、クーデターを頓挫させ、8月15日に無事終戦を迎えさせた、とも言えます。その、最後の近衛師団長、森赳中将は、土佐人であります。